失敗から教訓を得て 法を師とする
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2022年3月5日】私は長い間、ずっと黒い物質に囲まれていて、なかなか突破できず、最近になってようやく悟りました。同修たちが自分と同じ回り道をしないように、この文章を書きました。

 1、よくない観念を良いものとみなす

 良い人のイメージと言えば、まず何を思い浮かべますか? 私だったら、能力が高く皆と仲が良く、誰からもよい人だと言われ、普段から人とのトラブルが少なく、善行を積むのが好きな人を思い浮かべます。

 このような観念があるので、私は能力で修煉のでき具合を判断し、法理上で本当に良いことなのか悪いことなのかを重視せず、他人からの良い評価を求めていました。しかし、今は善悪が逆転し、国内のすべての教育と評価を最も常人の方向へ引っ張っていき、それが正常で良いことだと言われています。 多くの同修は常人から「よくない」と言われているのです。多くの同修は常人からの低い評価に悩んでおり、そして「良い人」になろうと努力し、結局、常人の基準に従ってしまいました。同修の間でも常人の観念で互いに指摘したりして、それが修煉だと思っています。

 私は人と接するのが苦手で、物事に対する理解も他人と違っているので、常人から見ると「正常」なところが少ないかもしれません。そして自分は何年も費やして「良く」なるように努力しましたが、変わっていくうちに、結局自分が悪くなって常人と一致するようになり、大法と一致しなくなったことに気づきました。同修や周囲からは「良くなった」と言われましたが、自分は以前とは比べものにならないくらい悪くなっていました。常人から見て、無口やバカと言われるのは、執着心がなかったことが原因ですが、今は人為的に執着心を増やしてしまい、改めて執着を取り除かなければならず、余計な苦労をしました。

 2、同修の評価に基づく自分と周囲同修の修煉を判断する

 私は、修煉ができていると思う同修と付き合うのが好きで、つい小さなグループを形成してしまいました。その結果、修煉において自分を囲んでしまいました。自分が賛成できない観念は間違っているとは限らないし、自分が良いと認めたことでも本当に良いとは限りません。しかし、似たような観念を持っている人が一緒にいると、視野が狭くなり、その観念を固守するように監視し合うことになります。法理に則って悟っていないので、学法も少なく、同修の言う通りにし、師父の説法に従わなくなりました。悪循環で、悟らなければ悟らないほど、ますます同修の言う通りにし、最後に師父の説法が全く思い出せなくなり、結果的に修煉になっていませんでした。

 3、同修に憧れ、同修に学ぶ

 修煉が良くできている同修から学び、良いところを吸収していくことは、一見問題ないようですが、同修の良し悪しは他の同修の評価と自分の観念によって判断したものであり、時には欠点であるかもしれないのに、長所として学んでしまい、自分自身に多くの厄介なことをもたらし、最後に、それが間違っていることに気づきました。法に従って行い、法に則って理解し、他人の評価を気にしないよう、同修を手本にしてはいけないと、今の自分は悟りました。

 4、親同修は子ども弟子を妨害するケースもある

 これが、私が黒い物質に囲まれた根本的な原因です。長い間、私の物事の良し悪しに対する評価を決めるのは母親であり、私の善悪の観念はすべて母親から来ています。このことに気づいたのは、私が大きな魔難に遭遇した時でした。その時の自分は、全く法を思い出せず、母親や周りの同修たちの言葉だけを思い出しました。師父の説法を一生懸命に思い出そうとしましたが、少しの印象もなく、師父が何をおっしゃったか分かりませんでした。

 学法を通して、少し良くなりましたが、それでも抜け出せず、疑問もたくさんありました。最後に師父が悟らせてくださいました。それは、まるで科学者が多くのものを発明したように、いったん法則を定めると、決してその枠から出られないのです。母親は私に円を描いたので、長い間、私は変わりませんでした。私が気づいても、母親たちはそれを悪いことだと思い、また無理やりに私を引っ張り戻しました。自分の意志が堅いかどうかを確かめる試練だったかもしれませんが、長期にわたって人に学んでいたので、自分の理解がなく、本当の変化が得られませんでした。

 5、慎重し過ぎる

 いつも嫉妬心と顕示心は現れていないかと恐れて、小さな事においてもこの二つの心があるのではないかと探していました。その結果、逆に執着心が生まれてしまい、その「恐れる心」が大きく膨らみ、「良く行わないと迫害される」という考えから、良く行いたいという願望が強ければ強いほど、思い通りにいかなくなり、不安と恐怖の毎日でした。この執着心に気づいてからは、何も考えず、落ち着いて、過去の事を考えたりせずに、目の前のことをしっかりと行えばいいのだと思うようになってから、うまくいきました。

 一番感じるのは、同修を模範にせず、法を師とし、他人の評価を用いて物事の善し悪しを判断してはいけないということです。私はこれを悟るのにかなりの時間がかかりました。私と同じ状況の同修がいるかもしれないと思い、この文章を書きました。間違っていたらご指摘をお願いします。

 【編集者注:この文章は筆者の現時点での個人的な認識を代表しているものであり、同修の皆さんと切磋琢磨し、「比して学び比して修す」のためのものです】

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/1/13/436719.html)
 
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