文/中国の大法弟子
【明慧日本2022年3月7日】師父はこのようにおっしゃっています。「法が天体を正すことはすでに終了し、現在法がこの世を正すことに移行しつつあります」[1]。これを読んで私が悟ったことは、私たちは一刻も早く人心や執着を取り除き、神の一面を目覚めさせるべきだということです。
人間の観念を取り除いて、はじめて人間の執着がきれいに取り除かれ、はじめて神の一面が徐々に現れてくるのです。
まずは、常人の「老いた」という観念を払拭すべきです。大法が広く伝え出されてから29年が経ちました。年配の同修が大きな割合を占めている中で、私がみるには、その多くはまだ「老いた」という観念を取り除いていません。階段を上れば息切れしたり、長距離歩けば腰や足が痛くなったり(真相を伝えに行くとき、帰れなくなることを恐れて遠くまで行かない)、飲食物に対して何かに特別に気を付けたり、体に何らかの病業が現れると、自分が老いたからこうなったと思ってしまいます。実際、この正しくない状態はほかでもなく、自分の正しくない観念が招いた旧勢力による迫害なのです。この迫害の現れはまた、人間の観念を強化してしまいます。もし、修煉者がお粥を食べ続けると癌になるという観念を持てば、お粥をずっと食べていると本当に癌が発症します。しかし、その癌はお粥の摂取に起因していません。
師父はこのようにおっしゃっています。「老、病、死も一種の魔ですが、それも宇宙の特性を守るためにあるものです」[2]。師父は私たちの面倒を見てくださっており、魔には口を出す権限はありません。老、病、死も大法修煉者とは無関係です。師父は私たちがいつも若さを保つように求められています。もし私たちに「私は老いた」という観念が形成されれば、旧勢力はあなたにさまざま歳を取った状態を押し付けてきます。あなたがそれを求めているからです。修煉者はまた、家族が持つ親孝行や、歳を取ればどうすべきかなどの観念も排除してあげる必要があります。
地元のある81歳の同修は、階段を2段ずつ登り、歩き出したら若者でも追いつくことができず、白髪童顔(年老いてもかくしゃくとしている)、元気もよく、まったく老いるという観念はなく、自分は若い状態に止まるべきだと思っているようです。
山中で修煉している世間小道の人たちは、何百、何千歳にもなっています。彼らがもし老いたという観念を持っていれば、そんなに長くは修煉できなかったでしょう。それに比べて、私たちが修めているのは宇宙の根本の大法であり、大法弟子が修めているのです。
次に、「名、利は良いもの」という観念を完全に取り除いて、はじめて名利心を払拭できます。皆さんも法理から分かっていると思いますが、人間は修煉のため、返本帰真するために人間社会に生まれてきたのです。徳がお金や地位に取り替えられてしまえば、何をもって功に演化させますか? 私たちはみな、大きな福を持っています。師父は私たちが修煉できるよう、私たちが貴族や金持ちとして生まれることを按排されませんでした。一部の同修、かつての私もそうでしたが、名声や富には興味がないと振る舞いつつ、子供が人より抜きん出て良い大学に入り、将来はお金や地位に恵まれてほしいと願っています。これは、まだ名利に執着していて、観念を改めていない表れではありませんか。
そして、常人の「物事は思い通りになることが良いこと」という観念も取り除くべきです。修煉者であれば分かるように、耳障りなことを聞いたり、思い通りにいかないことに出くわしたりするのは良いことです。その中でこそ、怨む心や闘争心、嫉妬心などを取り除くことができるのです。
修煉者が遭遇するすべてが思い通りになるのであれば、どのように業を返し、どのように心性を高めていくのでしょうか? すべてが因果応報だと知っていれば、何を怨むのでしょうか?
修煉をしていない妻は長い間、私に優しい言葉をかけたことがなく、口を開ければ文句を言い、非難します。その間、私はずっと怨む心を取り除くように努力してきました。最近、彼女が口を開くと、私はすぐに「彼女のおかげで、また良いことがやってきた」と考えるようにしています。そうすると、状況が一変し、彼女は汚い言葉を口にしなくなりました。
修煉者は自分なりの問題に対する見方を持つべきです。たとえば、男女間の問題は高い次元からみれば、泥んこまみれで汚いことだと認識し、そして、はじめて徹底的に色欲の心を取り除くことができます。苦をもって楽とすることができて、はじめて徹底的に安逸心を取り除くことができます。修煉をしていない親族は衆生であることが分かり、夫婦や親子などなどの人間関係にとらわれなくなります。そうして、はじめて完全に情を取り除くことができ、慈悲が生まれます。
人間の観念をまず取り除かなければ、いくら執着を取り除く努力をしていても、それは執着の中で執着を取り除いていることであり、やり遂げるのは難しいでしょう。人間の観念はいずれも利己的で自分のためのものです。そのような利己的な観念を完全に取り除き、神の基準に達することは、個人の圓満のためだけでなく、誓約を果たし、よりよく衆生を救い済度するためなのです。
師父はこのようにご教示されています。「真相を伝え、衆生を救い、これはすなわちあなたが行うべきことです。これ以外に、あなたが行うべきことはなく、この世界であなたが行うべきことはありません」[3]
皆さん、早く目を覚ましましょう。限られている時間の中で、よりよく法を実証し、衆生を救い済度しましょう。
注:
[1] 李洪志師父の経文:『目覚めよ』
[2] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[3] 李洪志師父の経文:『二〇一五年ニューヨーク法会での説法』