絵画に描かれる時空(四)下
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文/Arnaud H.

 【明慧日本2022年3月25日】(前号より続く

 動勢と雰囲気を描いて時間の連続性を表現する技法は、美術で最も使われています。時間を表現する方法は他にもありますが、最も直接的なのは下絵の方法です。

图例:弗拉芒画家沃尔夫特(Artus Wolffort)的油画《柯罗诺斯》(Chronos),78.5厘米 × 63.5厘米,约作于十七世纪前期。

フラマンの画家アルトゥス・ウォルフォルトの作品『クロノス』(Chronos)

 上の絵は、古代ギリシア神話のクロノスという時間の神様を描いたものです。時間はそもそも形がない神様ですが、神話では常に形を現わしています。芸術作品では年寄りの姿で表現され、つまり時間の古さと長さ、数え切れない時代の移り変わりを表現します。年寄りは時間が早く過ぎていくことを感じさせ、また時間がたどたどしく歩いていることを感じさせます。これらの要素は、すべて絵に生き生きと描かれています。両翼のある年配者が、時間を計算する砂時計を持ち、誰の目にも明らかにわかるように時間の神の身分と職能を表現しています。

 もちろん、他にも方法があります。一部は今の時代にはあまり見られませんが、歴史上、存在したことがあります。ここで簡単に紹介しましょう。

图例:意大利画家坎皮(Antonio Campi)所绘的《基督受难、复活和升天的奥义》(Les Mystères de la Passion, de la Résurrection et de l'Ascension du Christ),165厘米 × 205厘米,原为木板油画,后经换背为布面油画,作于1569年,现存于巴黎卢浮宫。

イタリアの画家アントニオ・カンピ(Antonio Campi)の「キリストの受難の神秘」(Les Mystères de la Passion, de la Résurrection et de l'Ascension du Christ)

 これは叙事の絵です。この絵は巧みな構図により、イエスが受難の直前、オリーブ園で祈祷し、その後十字架に磔となり、復活し、最後に昇天するストーリーを描きました。絵の右側を雲と霧が開ける構図として、そこに天国世界の現れを描きました。同じ絵に異なる時間帯の場面を表現し、人と神の二つの空間が同時に存在する表現方式をとっています。これは西洋人にとって歴史的に一般の認識となっており、当時の人に違和感はなかったのでしょう。

 この方式は、作品が単一の時間軸の延長線上にあることを表しています。しかし、芸術で描き得る時空は一つだけではなく、構図に異なる運命の選択の全体像を表現することができます。絵の中では、時間は一つの固定された運命線だけでなく、同時に様々な可能性があります。つまり異なる選択によって、異なる運命や未来に到達するのです。運命論の角度から言えば、人生の道はすでに定められており、各次元には一層一層の按排があり、唯一の自由意志は生命自体の正念の強さと道徳上の選択によるのみです。天国と地獄が同時に描かれた絵、あるいは人に選択肢を与える絵は、このように平面に多重な時空の概念を表現しているのです。

图例:早期弗拉芒画派(Flemish Primitives)画家凡·德·韦登(Rogier van der Weyden)的《博纳祭坛画》(Beaune Altarpiece),又名《最后的审判》(The Last Judgement),高220厘米,长548厘米,约作于1445年~1450年。

初期フランドル派(Flemish Primitives)画家ファン・デル・ウェイデン(Rogier van der Weyden)の『最後の審判』(The Last Judgement)

 15世紀のフラマン画家ファン・デル・ウェイデンは上の絵で、拡張する方式を使って「最後の審判」というテーマを表現しています。画面の中央の上にイエスが座り、両側の雲に聖徒と天使がおり、中央で衆生の審判をするのは前述の聖ミカエルです。地上では、すでに死んだ者も復活して審判を受け、聖ミカエルは彼らの善悪の審判をします。善人は絵の左側の天国に連れていかれ、悪人は右側の地獄に落とされます。

图例:《博纳祭坛画》中部细节。

『最後の審判』の中央部分

 聖ミカエルが衆生の審判をすることについては、多くの言語学者や歴史学者、宗教学者が、語源や世界の各民族の宗教、神話をたどり、異なる宗教で語られているミカエル(Michael)、メシア(Messiah)、弥勒(Maitreya或いはMetteyya)などの名前は、同じ神様を指しているかもしれないと指摘しています。つまり、歴史の最後の時に世に降りて衆生を救い済度し、法が乾坤を正し、衆生の善悪を通して彼らの行き先を決める神様と認識しています。

 聖ミカエルは身をもってこの世に降り、地上に立って衆生と直接接触します。地上と天国や地獄は異なる空間にありますが、絵では同時に表現されています。衆生の行き先にも天国と地獄の二つがあり、審判を受ける衆生にとっても、審判後に二つの異なる未来があることを意味しています。

 「最後の審判」は、天国に行くか、地獄に落ちるか、衆生にとって恐れと緊張の最終の時です。人々は、審判が自分の過去の善悪行為によってなされることを知っています。善には善の報いがあり、悪には悪の報いがありますが、悪を行わないならば悪の報いもありませんので、未来を心配する必要はありません。

 しかし、神様への信仰がとだえてしまった現在、このことを信じる人はどれほどいるでしょうか? 現代科学が至る所に浸透した環境下で、人々は金銭や権力、利益、欲望などを信じました。これらの人々は、佛、道、神が古人の「愚昧の想像」と考え、逆に神聖な正しい信仰が「封建的な迷信」と冷笑されています。そして自分自身の道徳基準を努力して向上させようとする修煉者を精神が錯乱していると見なしました。よくて冷やかしや嘲笑、悪ければ迫害の対象になり、残酷な生体臓器狩りの対象となり殺害されてしまうことさえあります。

 人類の文化には、昔から自分の信仰する神様の名前を念じる習慣があります。そもそも神様の名前を念じることは神様への尊敬のためであり、修煉で必要となることもあります。このことは次第に多くの人々に受け入れられ、知らず知らず習慣となりました。例えば、中国で佛を信仰している人は良いことと見られ、自然に「我佛慈悲,善哉善哉!(わが佛は慈悲深く、善哉善哉(ぜんざいぜんざい))」と念じ、道家の修煉者なら、「福生无量天尊!(副生無量天尊)」を念じ、キリスト教を信じる人なら、「oh,my god!」と念じます。人は誰かを信仰するなら、その誰かの名前を念じます。しかし、今の社会では多くの人が同じ状況で、「666、凄い」と念じます。皆さんもご存知のように『ヨハネの黙示録』で666という数字は獣の数字とされ、神様の敵として邪悪の獣の名前を表しています。このことについては、見解が異なる人もいるかもしれません。「源が異なるのだから、偶然だ」と思うかもしれません。中国に「冥冥之中有天意(すべてのことには天意の按排がある)」ということわざがあり、人が獣の名前を念じること自体、反省すべきで、警醒すべきではないでしょうか?

 今は、論理、道徳、信念がすべて崩れている時代です。今、各宗教、神話の末世の状況が至る所に見受けられます。全世界の食糧危機、出生率の大幅な低下、疫病が全世界に蔓延し、各種の天災や人災が絶えず現れて、死亡者数も増加…。伝統文化では「善のことにしても、悪のことにしても、必ずその報いはあります」と因果応報を言います。どんな因を埋めたら、どんな果を得ることになるでしょうか。人に血の旗(中国の国旗)に誓わせ、獣の印を付けて、神州(中国の本土)に「無神論」を広げている赤龍(サタン)による修煉団体への迫害は、直接神様の次元に及び、天地で最大の罪悪です。したがって正義と邪悪の戦いが終われば、赤龍と赤龍を支えている人達は、最も厳しい天罰を受けることになります。このことは各宗教で預言されたことがあります。

 末劫の衆生として、最も賢明なのは佛道神の側に立つことで、修煉団体を尊敬し、正義を支持し、獣の印を消して、神と共に歩むことで赤い龍の毒害を避けられ、自分の素晴らしい未来を切り開くことができます。

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 昔から、正念で伝統技法を使って神様を表現する絵画は、ある時空の媒体に相当し、鑑賞した人が神聖な境地に繋がる架け橋となってきました。絵画と時空の関係は非常に複雑なので、ここでは単純に人類の現在の学術理論に基づいて簡単に紹介しました。実はいろいろな要素が多すぎて、簡単に概括することができません。芸術家はこのことについて多くの心得があり、「水は飲んでみれば、その冷暖が分かる」というように、言葉で表現することは大変難しいのです。この文章は、皆さんに絵画芸術の特徴を紹介するものです。適切でない所もあるかもしれません。そこはぜひご理解いただき、ご容赦いただければと思います。

(完)

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/12/27/434469.html)
 
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