習慣化された党文化
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2022年8月15日】さまざまな事情で海外に出た中国大陸(以下、大陸)出身の学習者が、すでに海外に住んでいる学習者の数を大きく上回るようになりました。このような学習者の多くは、もともと海外にいる学習者との考えや言動、観念からまだかなりかけ離れているのが現状です。

 もちろん、大陸出身者には堅実な修煉者が多く、中国国内の人を済度するという立場を堅持しています。本来の海外の学習者も一致団結しているわけでもないのです。海外に20~30年滞在しているベテラン学習者の一部も、大陸出身者と同じ思想を持っており、これらの悪い硬直した、やる気のない現象や党文化の汚染は中国本土に限定されず、人々の考えや習慣をまだあちこちに持っています。しかし今、これらの悪い物質は、大陸から海外に来た多くの学習者の「モデル」になっています。「あの人は何年も海外にいるのに、まだあんな状態なのか」とよく言われています。要するに「海外がいいとは思わない。私と変わらないし、現地の言葉も話せないし、地元社会に溶け込まないし、中華料理をまだ食べているではないか」などの意味が込められています。

 偏った一般化は政党文化の極端なイデオロギーの反映であり、伝統文化は中立を教えるので、この比較は明らかに良くないのです。古人いわく「賢を見てはひとしからんことを思い、不賢を見ては内に自ら省みる」つまり、自分に勝る人を見てはその人のように成りたいと思い、自分より劣る人を見てはその人と同じようなことがないか、自分を点検するということです。それはまだ常人の中で良い人になり、自己修養を改善することです。修煉者であることは言うまでもありませんが、基準はどこにあるのでしょうか? しかし、傲慢と自我が自分を支配するとき、傍観者だけがそれが明確に分かり、本人は迷うのです。

 師父がおっしゃった大陸の学習者が海外に来ると、海外の人を見下し、海外の人は単純(バカ)だと思い、海外のあれやこれが悪いと思うほかに、また非常に強い洗脳の結果を反映し、大陸から出てきた学習者が党文化の汚染で良い考えで自分を浄化する事ができない、いくつかの共通する習慣があります。

 1.誰もいないかのように、公共の場で声を張り上げる

 現地の欧米人をいちいち「外人」(すこし軽蔑の意味を含む)と呼んでいます。この 「俺が一番 」という習慣は、事実上非常に利己的で他の人を尊重せず、同時に自分自身を軽視するというのは、平気で無邪気に誰かを怒らせる悪い癖なのです。

 2.コミュニケーションを取らず、どこでも他人に主張する

 ここでのコミュニケーションを取らずというのは、「話す」と「聞く」の両面で現れています。この習慣のある人は、他人の話を聞いてもまったく耳を貸さず、いつでもどこでも、思考に思考を重ねて、他人を定義し、断言することに忙しくしています。それが事実かどうかは、結果を見ればすぐにわかります。相手が話し終わらないうちに自分の言いたいことを繰り返したり、相手がひと言も言っていないかのように主張し、脱線したりするケースが多く見られるのです。その繰り返しと主張が、いかにもテープレコーダーのように聞こえ、異空間にあるその「テープ」上には、彼自身の習慣や強勢があるのです。他人が言っていると思いこんだことしか「聞こえない」ので、話している人を誤解したり、誤認したり、定義したり、決めつけたりしてしまうのです。

 そういう人は、肉体の耳に問題があるわけではなく、党文化に深く浸かりすぎて、党文化の中で培われた思想が「本当の自分」を埋没させてしまうのです。だから、単に人の話を聞こうとせず、いつでも断定して主張するという癖は、自分の善良な性格よりはるかに強いのです。

 3.人心や常人の基準で修煉に向き合っている

 いくつかの例があります。まず、自分の病気は自分の「繊細さ」や「高貴さ」の証しとしてでも、なかなか消せないという思いが根強いことです。昔はケガをしていて力仕事ができない、前はある物を食べられなくて、食べると下痢をする、子供の頃から病気がちで、だからこうなるのです」と口を開けば、常人の観念が強い学習者が今でもたくさんいるのです。いつから修煉を始めたかと聞けば、十年前、十数年前、あるいは二十年前と答える人がほとんどでしょう。本当に修煉したのですか? もちろん、この表現は「病気」だけに限らず、他の概念も同様で小さいときから頑固でした。しかし、それを修めないと圓満にはできないのでしょう。どの天界の佛、道、神の特性はすべて真・善・忍に則っているはずです。道理をわきまえず、真・善・忍によって測れない「頑固」というのは、どの天国の仏、神々の手本なのでしょうか。

 4.誰にも言わせない 

 人にあれこれと言われたくなく、学習者同士で利益を交換し、お互いの利益を奪い合い、こねを使っています。彼らは十年、十数年、二十年と法を学んでいると主張するのですが、良い言葉、普通の人の「心地よい言葉」しか聞けなくなり、批判には全く耳を貸さなくなっています。つまり、いつも自分が正しくて、誰よりも賢いと思い込んでいます。これらの習慣の現れが何を意味するのか、法の中では非常に明確です。それは「仁者は仁に目を向け、智者は智に目を向ける」つまり、物事に対する見方は人によって異なる、ということなのです。

 師父は「修める人しか得られないのです」[1]と説きました。

 上記の問題は、より一般的なものかもしれませんので、あくまで参考として書いています。真・善・忍に導かれ、内面を修めることを習慣とする、修煉者にとって真の環境となるように、皆がもっと注意を払うことが本来の目的です。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『法輪大法義解』「長春法輪大法輔導員のための説法」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/8/2/447119.html)
 
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