「私心」について少しの悟り
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文/日本の大法弟子

 【明慧日本2022年9月5日】日本語では「私」という漢字は「わたし」を表します(中国語では「我」)。つまり、「わたし」は「私(し)」であるということです。そのほかに「正念」、「精進」、「邪魔」などのよく使われる単語があり、字面から見ると、神伝文化が人類にのこしたご啓示だと思います。「私心」の「私(し)」で「わたし」を表現するのは直接的に本質を指しているといつも感心しています。

 私は以前読んだ、同修が書いた輪廻転生の文章の中で、ものすごく印象に残ったことがあります。文章の大体の内容は、次の歴史の芝居がまもなく上演され、登場人物は中国の十大悪人の1人、魏忠賢(ぎ ちゅうけん)です。彼は一生涯悪事ばかりを働くキャラクターで、下界に降りて輪廻転生し、彼の役を演じる神を決めなければなりません。天上にいる神々は人間界の業力は波のように多く、魏忠賢はたくさんの業力を作ってしまい、最後に、自分で返さなければならない始末が全て見えています。多くの神が躊躇していましたが(私の悟りではこの時の宇宙はすでに変異したから)、1人の神が毅然として、下界に降りました。当時、ここまで読んだ私は衝撃でした。偉大な神は「私心」がなく、歴史の台本が通常通りに上演できるよう、全てを捨てられる存在であると分かりました。

 逆に自分はどうでしょうか。初めて師父の経文の中の「人類の歴史はあたかも芝居のようです。皆さんが国王から庶民まで、英雄から強盗まで(皆笑って)文人、著名人から英雄まで、全てを皆さんがやったのです」 [1]を読んだとき、私は「強盗は嫌だなあ」と思いました。その一念は自分が悪人を演じてその業力を返済したくないという「私心」によるものでした。

 師父は、「利己は今までの宇宙の根本的な属性であり」[2]と説かれました。私の理解では、脳の中に「わたしは」という一念が出た瞬間にすでに「利己」の念が動じ、常人の中に形成されたさまざまな観念のモードに入ると考えます。例えば、自分の性格や能力に対する固有観念です。私の体験ですが、対面で真相を伝えるとき、もし、私の最初の一念が「私は人見知りだ」となると、すぐに人見知りの状態になってしまい、うまく伝えられないことがあります。しかし、もし最初に「この人を救いたい」という一念があれば、この一念は他人のためであり「私は人見知りだ」という一念を制御することができ、全く思い出せないのです。その時は、いろんな話題から真相に切り替えることができ、知恵も湧いてきます。

 「神韻ダンサーへの道」というビデオの中の、「観念こそ本当の縛りである」の言葉はいろいろと悟らせてくれました。私たちは自分の能力に対する認知も一つの観念で、この観念は「利己の属性」の常人生活で形成されたものです。これらの観念を取り除くとき、もし「私心」から掘り出せば、観念は根こそぎ引き抜かれたと感じます。大法のプロジェクトにおいて、動く念が違えば、結果は全く違います。

 最初の一念で「私には難しそう」、「私にはできないかも」と思ったとき、表向きは事実のように見えますが、実はその裏に「面倒くさいことをやりたくない」、「時間をかけたくない」など「利己」の念が隠されています。逆に「大法のためなら、なんでもやる」と思った時は、いつもひらめきがあり、難しそうなこともできるようになることが多いのです。その時は自分がまるで水のような形のないもので、必要な形に変化できます。急に能力が出てきたのではなく、自分の観念で能力を束縛しなくなったのです。基点は「大法のため」であり、すべては法から得た力です。

 法を正す進展とともに、多くのプロジェクトがより良い方向に向かい、さまざまな能力のある人が必要となります。大法弟子の人数は限りがあるので、「私心」から由来する観念を突破できれば、大法弟子の能力には上限がなくなると悟っています。

 以上は「私心」についての私の浅はかな悟りです。同修と励まし合い、法を実証する道で観念に縛られず、全てを大法のために使うよう精進したいと思います。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『北米での巡回説法』
 [2] 李洪志師父の著作:『各地での説法五』「二〇〇四年米国西部法会での説法」

 【編集者注:この文章は筆者の個人的な観点を代表しているものであり、正しいか否かについては筆者個人が責任を負うものとし、読者は自身で判断してください。】

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/8/29/447096.html)
 
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