文/中国の大法弟子
【明慧日本2022年9月29日】
4、髪と健康
髪の毛は体表に生えていますが、人体の各部分と密接な関係があります。一本の髪の毛を何千、何万倍に拡大すると巨大な柱になって、中には大きくて奇妙な世界が存在しています。修煉者は大周天を貫通したらエネルギーは全身を走り回り、一本一本の髪の毛に至るまで貫きます。
漢方医では髪の毛は血と腎臓と関係があると考え「血は髪の根本で、髪は血の余」、「腎臓が健康かどうかは、髪の毛を見れば分かる」などの言い方があります。漢方薬に「血余(けつよ)」という薬がありますが、何だと思いますか。人間の髪の毛です。
漢方医の診断方法は「望、聞、問、切」にまとめられており、望診とは「形態、色、艶、呼吸など身体各部位を観察して判断する方法」、聞診(ぶんしん)とは「声の状態や臭いを嗅いで判断する方法」、問診とは「患者や家族に直接言葉で尋ねて判断する方法」、切診(せっしん)とは「患者の脈を診て判断する方法」。望診(ぼうしん)の時、髪の毛を観察するのも重要な一環です。健康な人の髪は普通黒ずんでいて、体調の悪い人は髪が黄色くて枯れ草のように枯れて、折れやすいです。ベテランの床屋さんは、ひん死の人の髪はごわごわしていると言っています。
5、髪と個性
髪の太さから見て、太い人は一般的に根気よくて執拗で、髪の毛が細くて柔らかい人は、一般的に綿密に物事を考えます。
額の生え際から見ると、だいたい生え際が後ろに寄る人はおおらかで知恵があります。大多数の人の生え際は緩やかな円形をしますが、真ん中は尖って突き出て、「山」の字のようになっている人もごく少数いますが、面相ではこれを「参差(しんし)」と呼び、気性が激しい人です。
髪の色から見ると、中国では「黄毛が悪い、白毛が善良、カールするものはややこしい」ということわざがあって、髪が黄色っぽく、特に赤い色の人に気性が荒く、せっかちな人が多いという意味です。また、髪が白い人は一般的に性格が穏やかで、カールしている人は変な性格の持ち主です。もちろんこれはことわざにすぎず、一概には言えません。
6、髪の毛にまつわる物語
「怒りで髪が逆立て、冠を衝き上げるほど」
趙の宝物「和氏の璧」を巡り、秦が璧と自国の十五城との交換を申し出てきました。和氏の璧が天下に知られた名宝とはいえ、十五城といえば小国にも匹敵する程であり、条件としては良いのですが、相手は常に侵略の機を狙っている強国秦。実態はただの口約束で、宝物を要求しているだけである可能性が高いと趙の恵文王は思いました。
趙の使者として藺相如は秦の都・咸陽へ入り、秦の昭襄王と対面して、和氏の璧を渡しました。受け取ったとたん、寵姫や群臣に見せびらかし続け、城の話をする気配が無い昭襄王の態度に、城を渡す気が全く無いと判断した藺相如は「璧に実は小さい傷があるのです。よろしければお教えいたしましょう」と近寄って璧を奪い取り、柱の側へ駆け寄りました。そして、冠を衝き上げるほどに髪を逆立てた凄まじい怒りの形相で「趙では疑う意見が多かったが、『庶民ですら欺くのを恥とするのに、ましてや大国が欺くなど』との私の言を趙王様は入れられ、大国秦に敬意を払い5日間身を清め、和氏の璧を渡してくれた。この趙王様の信義に対し、秦王様は余りにも非礼で粗雑な扱い。もはや璧も自分の頭もこの柱で叩き割ってくる」と言い放ちました。
昭襄王は慌てて地図を持ってこさせ、十五城の話をしましたが、それはうわべだけで城を渡す気が無いと見た藺相如は、昭襄王に宝物を受ける際の儀式として5日間、身を清めるよう要求しました。そしてその間、従者に璧を持たせ密かに趙へ帰らせる一方、自らは残って死の覚悟をしながら時間を稼ぎました。これは熟語「完璧帰趙」の由来です。
「首の代わりに髪を切る」
三国時代の曹操をめぐってこんな物語があります。麦が熟した季節に、曹操は兵を率いて出征しています。麦畑を踏みつけた者を死刑に処すると曹操は兵士に命じましたが、あいにく行進中に曹操の馬が暴れて麦畑に入りました。自分の罪を懲罰するようにと曹操は部下に要求して、部下は「丞相(曹操の官職)の罪を問うわけにはいかない」と答えました。曹操は「自分が言ったことも守らなければ、どうやって兵士に軍令を遵守させるのか」と言って、剣を抜いて自刃しようとしました。部下は、「『春秋』に『懲罰は尊いものに加えない』とある。また、丞相は大軍を率い重責を負っているのに、自殺するわけにはいかない」と言って、曹操は長い間考えて、「古書にその言葉があって、私も皇帝から託された重責を負っているのだから、髪を切って私の首の代わりにしよう」と決断しました。体や髪の毛は両親から受け継いだ大切なもので、傷つけてはいけないと古人は思っていたので、むやみに髪を切るのは非常に不孝な行為だとしています。
「眠気に打ち勝つため、髪の毛を梁に結ぶ」
後漢の孫敬常はよく徹夜で勉強します。読書中の居眠りを防ぐために、彼は髪を梁にひもで結びました。眠気に襲われて、うとうとして頭を下げる時に、髪が引っ張られて目が覚めます。彼は勉強に励んで、ついに古今に通じた大学問家になりました。
「長髪を売って客を招待」
陶侃は、若いころ家が貧しかったのです。大雪が降った日に友人が訪ねてきて、友人を招待する金がないことに陶侃は困っていました。彼の母親は「お客さんを留めてください、私には方法があるから」と慰め、ベッドに敷いた干草を細く切って友人の馬に食べさせて、髪を切って酒菜と買い換えました。
陶侃は東晋初期を代表する名将であり、彼の成功は賢明な母親のおかげだと言い伝えられています。彼の母・湛氏は中国史上の四大賢母の一人と言われています。
「伍子胥が昭関を通過するため、一夜にして髪の毛が真っ白になった」
楚平王は讒言(ざんげん)を信じ、伍子胥(ごししょ)の父と兄を殺害して、また伍子胥の肖像画を描いて指名手配をしました。伍子胥は宋国、鄭国に逃亡しましたが、両国でも安全ではないため、呉国に逃亡する計画を立てました。呉国へ行く途中に必ず昭関を通らないといけなくて、昭関に彼の肖像画が貼られています。伍子胥はやむなく知り合いの家に泊まりました。焦りと悲しみのために、彼の髪は一夜にして白くなってしまいました。しかし髪が白くなったおかげで容貌はずいぶん変わって、翌日、無事に昭関を通過し、呉国に行きました。
「危機一髪」
枚乗は前漢の著名な文学者で、呉王に仕えていました。呉王は朝廷に反逆しようとしたので、枚乗は止めて、「一本の髪に千鈞の重さを結んで、上は果てしない高いところにぶらさがり、下はそこのない淵である。これはどれほど危険な状況だろう(鈞は古代の重量単位で、一鈞は30斤相当)と言いました。呉王は聞かなかったので、枚乗は梁孝王の門下に身を寄せました。その後、呉王は敗れて国も滅ぼされました。人はみな枚乗の卓識に敬服しています。