【慶祝513】仕事中の事故で精神障害に 10年以上経ち師父が目覚めさせてくださった
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 文/中国の大法弟子 法縁

 【明慧日本2022年11月15日】私は16歳の時に社会人になりました。その1年後に突然井戸の噴出の際、私は真っ先にデリック(訳注:貨物を釣り上げて移動させるクレーン)に駆け寄ると、高く長い音をたてて噴出するガスで気を失い、デリックに逆さ吊りになりました。私は硫化水素ガスを吸って中毒になりました。

 硫化水素は非常に有毒なガスで、強い神経毒であり、少量を高濃度で吸い込むと短時間で死に至ります。硫化水素は目、気道の粘膜、呼吸器系全体、神経系に大きなダメージを与え、神経と精神に後遺症を残しました。

 10年以上の間、愚かで間抜けに

 そこで、それから10年間、病院や防疫所を転々とし、上級検査機関は私を上海に送り高気圧性酸素室療法を受けさせ、この治療は非常に効果がなく、私の負傷は「産業中毒、認知症等級1」と診断されました。

 少し記憶が戻ったところで、私はすでにケアハウスに行くよう手配され、急に体調が悪化してもすぐに医者に行けるようにするためでした。特別配給では毎月5キロの卵を私にくれました。その時ケアハウスの中庭には、ケアハウスを改装するための砂が大量に積まれており、私は毎日ご飯茶碗で砂を取り出し、一日中砂を掘って遊んでいたので、食事の時は誰かが呼びに来なければなりませんでした。

 ケアハウスにはいたずら好きな青年たちが住んでいて私をいじめ、私の頭をまたいだり、私を馬代わりにしたり、飛び越えたりして、私は砂の山に押さえつけられ、口の中に砂が入ってくることもよくありました。私はいたずら好きな青年たちが嘲笑し罵りながら、私の頭の上を横切るのを呆然と見ていましたが、何を言えばいいのか何をすればいいのか思いつきませんでした。結婚適齢期になり、30代、40代の人たちを紹介され、中には性格の悪い人もいて、紹介者にばれないように私を試したり、私をからかったり、私を侮辱したりしてきました。心の中ではダメだと思っていましたが、バカ正直に受け入れてしまいました。

 28歳の時、私は結婚しました。妻は容姿端麗で可愛らしく、色白の農家の娘でした。妻は多くを語らず、私は毎日妻を見上げて微笑み、微笑む以外には何も言えず、何も考えられず、何もできませんでした。妻は子供のように私の面倒を見てくれ、私をお風呂にも入れてくれて、私は立てと言われれば立ち、座れと言われれば座りました。ある日、補給の5キロの卵を受け取るために、妻は田舎の未舗装の道を十数キロ自転車で、前に卵を乗せ、後ろに私を乗せて行きました。

 その後、私には息子が生まれ、他の人の父親が子供に物語や道理を伝え、私は息子と一緒にハイハイしながら犬の鳴き声を覚えることができただけでした。

 愚かで不自由な男だった私が、妻と子供のいる家族を持ち、友人や親戚の目には嵐に揺れる小さな家に希望があるように映り、様々な困難や苦労がありましたが、ようやく軌道に乗り、幸せを味わうことができました。しかし、一家の大黒柱である妻は、重症筋無力症を患い、息子はわずか2歳6カ月の時に亡くなりました。

 家を失い、私は仕方なく祖母の家、叔母の家、結婚したばかりの妹の家を転々としていました。一度だけ、夜中の何時だったか、激しい銃声と叫び声で私は目が覚め、その時、妹がちょうど寝室でテレビを見ており、私の好きな戦争映画を見ていたので、私はダッシュで妹の寝室に入りました。妹と妹の夫は布団の中でテレビを見ていました。妹と妹の夫はとても親切で、何も言わず失礼なことをしたと責めることもありませんでした。もしかしたら慣れてしまったのかもしれません。

 幸運にも修煉を始める

 数えてみると2002年のことでした。私は幸運にも修煉を始めました。私は頭がはっきりしておらず、法を学ぶことができず、読んでもわからず、覚えることもできませんでした。ただ以前に武道を習ったことがあったため、このことは私が煉功動作を学ぶのに役に立ち、私は五式の功法をマスターしました。

 私は服を脱いで師父の写真の前で煉功しました。叔母が真相を伝えて戻ってくると、私の顔を平手打ちして叱責しました。しかし、私は「服を脱げば、師父だけが私の体のどこに悪いところがあるのかを明確に見ることができ、私の体を浄化してくださり、超音波検査の時もこうではなかったか」と思っていました。何度か繰り返しているうちに、叔母は仕方なく私に好きなようにさせてくれました。その2ヶ月後、妹が会議に出席するために出張し、私は服を着て煉功させられました。

 煉功した後、私は寒さを恐れなくなり、麦の収穫時に綿のジャケットを着る必要がなくなり、傾いていた肩のバランスがよくなり、不自由だった半身が動くようになり、私の黄色かった顔は血色がよくなったと皆が言いました。1年後にIQは回復しましたが、ただまだ計算はできず、お金の認識ができず、電気製品も使えませんでした。しかし、法を正す時期の大法弟子の責任は理解しました。

 衆生を救うために困難に立ち向かい、師父は慈悲深く加護してくださった

 ある街で、私の息子が地区の入り口で、カメラで最も鮮明に写る位置でスプレーで文字を描いていました。警察はかんかんに怒ってこの出来事を調べました。私と息子は仕方なくその街を出なければなりませんでした。法輪功に関する文言を印字した紙幣を使い切り、真相資料も出所がなくなりました。私は自分で字の型を作りスプレーで字を書きに行くことにしました。文字の型を作ることができず、型を作ってくれるところを探して行くと、みんなその中に「共」という文字があるのを見て「おい、これは『共』の字だが、これを作って何をするんだ?」と言いました。そして作ってくれませんでした。作り方を聞いても、私と息子に教えてくれませんでした。そうなると後は自分で作るしかありませんでした。一回作ってダメで、もう一回作ってダメで、何度も作り、繰り返し熟考し、最も難しいのは左払いの筆画で、簡単には作れず、見た目がよくならず、つり合いが取れず、修正し、再び作り、何度も何度も作り、作った文字を光にかざして壁や床に投影して効果を見ました。10日ほどじっとこらえ、ついに作ることができ、私と息子はついに文字の型を作り、文字の型を作るという関を突破しました。私たちが作った文字はとても美しく、このような形で人々を救うことができると思うと、とても嬉しくなりました。

 ある時、私は農村にスプレーで字を書きに行き、目立つ位置でしたが、若い恋人同士の話し声がずっと聞こえてきており、しかしどこにいるのかは分かりませんでした。私は字を書き終わって初めて50メートル先の一本の桐の木の陰から1人の人が覗いていることに気がつきました。私は急いで自転車に乗りって去りました。

 ある時、村に資料を配りに行き、村長の奥さんの手に渡し、村長の奥さんに訴えられたことがありました。途中で警察のバイクの音が聞こえ、私は師父の啓示を理解せず、さらに資料を配り続けました。パトカーの音がさらに大きくなり、わたしはまだよく分かっておらず、結局逮捕されてしまいました。

 私は恐れず、ずっと真相を伝え、自らの体験を伝え、そして大法の素晴らしさを伝え続けました。暴力隊(警察署に雇われている無頼のよた者で、警察協力員)がやって来て、暴力隊の隊長が「話すつもりはあるのか」と私に聞き、私は「江沢民は大法を修煉する善良な人々を迫害しており、私は大法を修煉して体が元気になりました」と言いました。警官は私が伝えた私自身の経験を聞き終わった後に笑い、私を殴るように指図はせず、そして「これは地元の名物だ」と言って私のために冷麺を買い、さらにビスケットもくれました。出て行く時にさらに焼き餅二つを私に途中で食べるように言いました。

 私はずっと正念を発し、国内安全保衛部門(法輪功迫害の実行機関。以下、国保)まで送られ、国保の隊長が「誰が○○だ?」と叫びました。私は「私です」と言いました。隊長は「何かを学ぶことは良くない、それでもこれを学ぶのか」と言いました。私は隊長たちに自分の経験を話し、天安門広場での焼身自殺が偽りであることを伝え、煉功動作と王進東の偽りの動作を対比させて詳しく伝え、大法が「真・善・忍」に従って行動するよう人々に教えていることを伝え、私たちは家庭を愛さないのではなく、テレビでの誹謗中傷のでっち上げは・・・。私が言い終わらないうちに、隣の警官が「早く連れて行きましょう」と言いました。

 警察は私を連夜、拘置所に拘禁しました。この時、刑務官の一人が足を怪我し、私はその刑務官に「心から『法輪大法はすばらしい』と念じれば、足はすぐに治りますよ」と伝え、その刑務官は大法弟子の善の心を見て、私が他の人とは違うと言い、監房内の受刑者も「ここでは彼が一番です」と言いました。

 私の健康が回復したことで、大法の超常さと師父の偉大さを実証した

 職場は毎年私の様子を見に来て、回復状況の情報を記録していました。私は健康を回復した後に元の職場に復帰しました。現任の隊長に会い、私がよくなったことを隊長に伝えました。隊長は顔をしかめて「最初の3ヶ月間わたしはあなたを見ていて、頭がまだはっきりしていないようだったが、なぜこんなに早く治ったのか?」と言いました。私は隊長に「法輪大法を修煉して健康が回復しました」と言い、隊長はショックを受けてスッと椅子から立ち上がり、理解して「しばらくの間誰にも言わないでほしいのだが、大法が素晴らしいことを私は知っており、私の向かいに座っているあの女性ですが、くれぐれも彼女にはこのことは言わないように」と言いました。

 後日、私は市場で、引退した以前の隊長に会い、隊長は私に「私のことをまだ覚えていますか?」と尋ねました。私は「あなたは昔の隊長です」と言いました。隊長は「よくなったのですか? どうやってよくなったのですか?」と驚きの声を上げました。私は、師父が法を伝えるために私たちのところに来てくださったこと、「天安門焼身自殺」が嘘であり、濡れ衣であることなどを伝え、私たちは歩きながら話しました。すると、隊長は目の前、私が(前日に)スプレーした文字を見て、思わず「おお、ここにも『法輪大法はすばらしい』とあるじゃないか、見てみろ」と言いました。以前の隊長の目は承認と称賛に満ちていました。

 私が私の叔父に真相を伝えていた時、叔父は娘婿を部屋に入らせて私の話を聞かせ、娘婿に「彼の以前の様子と比べたら、今では考えられないほどたくさんのことを知っており、こんなにもたくさんのことを覚えていられて、本当に信じられない! 彼の話から判断すると、彼の師父は素晴らしい!」と言いました。

 二つの興味深い出来事

 私はいつも真相を伝える過程で自分の経験を同修に伝えるのが好きで、 かつては間抜けで障害者だった私は師が法を正すことを手伝う弟子になることができ、とても嬉しく思っています! 私の目の前には神へ向かって歩む道があり、私は神の道を歩んでおり、師父と大法への感謝の気持ちでいっぱいであり、人と交流せずにはいられないほどの幸せと喜びでいっぱいです!

 二つの小さなエピソードを分かち合いたいと思います。

 ある街で、私はある人に真相を伝え、その人はとても好意的に受け止めてくれました。私はまた「あなたに覚えてもらいたい言葉があります」と言い、私は「法輪大法はすばらしい」という文字の型板を取り出してその人に見せ、1文字の高さは6センチほどで、私は「この字は平安を保ち福報を得ます」と言いました。その人は「外でスプレーするのではなく、寝室にスプレーしてください、私は毎日見ることができるし、毎日念じることができ、この上なくすばらしいです」と言いました。

 もう一つの出来事は、野外のショッピングモールで、私は自転車のカゴに真相資料を入れて配っていると、ある警官が私の手をぐっとつかみ、私は思わず笑い出してしまい、その警官を見ながら笑っていると、その警官は笑ったり戸惑ったりしていました。私はショッピングモールの端にある静かな段差を見つけて、その警官に座ってもらい、真相を伝えました。その後、その警官は私に会うたびに温かくあいさつしてくれました。

 言いたいことは山ほどあり、弟子は師父への感謝の気持ちを表現する方法がなく、ただ自分をしっかりと修め、多くの人を救うことしかできません。

 師父により新しい命をいただいたご恩に感謝申し上げます! 師父に感謝申し上げます!

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/5/10/385977.html)
 
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