高校生「大法のおかげで、私は変わった」
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文/中国の大法弟子  

 【明慧日本2022年11月17日】私は17歳の高校生です。「天安門焼身自殺事件」は中国共産党当局が脚色し、捏造したもので、法輪功に罪を着せた事件なのですが、学校で同級生に「天安門焼身自殺事件を知っていますか?」と聞くと、大多数は「はい、あの邪教のことでしょう」と答えます。

 同級生の答えを聞くたび、本当に悲しくなります。なぜ彼らは法輪功は邪教だと迷わずに言えるのか、よく考えてみました。小学校の教科書「品徳と社会」に法輪功に対して、嘘偽りなことが書かれていたからかもしれないし、他人から聞いた噂が原因かもしれません。とにかく同級生たちは、中国共産党によるインターネット封鎖や検閲で、法輪功が他の国ですでに広がり、尊敬されていることが分からないのです。彼らは、法輪功が1992年から1999年にかけて中国で広く普及し、あらゆる階層の人々に愛されていることも知りません。当時、法輪功が公園や広場で堂々と修煉できたことも、江沢民が法輪功学習者の人数が中国共産党党員の数を上回ったことに嫉妬して法輪功への中傷計画を秘密裏に始めたことも知らないのです。このように騙された学生がまだまだたくさんいることを思うと、とても悲しい気持ちになります。

 私の周りには、理由もなくイライラし、暗い気持ちになる同級生がたくさんいます。彼らの喜びの多くは、芸能ニュースを見たり、芸能人を追いかけたり、恋愛小説を読んだり、ゲームをしたりすることですが、結局このような喜びは表面的で長く続かず、本当の良い気持ちではなく、空虚なものなのです。表面的な喜びが去って行くと、自分が何をしたいのかわからなくなり、茫然としてしまうのです。

 中学生の頃、私はとても嫌な気持ちになった時期がありました。学校の勉強でプレッシャーを感じ、クラスメートが言ったことが、意図的であろうとなかろうと、少しでも自分に引っかかると、イライラし、不機嫌になり、恨みを持つのでした。食事することも着替えすることも、嫌になり、ご飯をおいしく感じないし、服とズボンが合っていない、ズボンと靴が合っていないなど、とにかく何もかも気に入らないのです。実を言うと、私は服装にこだわりがあるわけではないのですが、その時はそんな気分でした。その気分では当然、勉強もうまくいかなかったのです。その経験から、私は、同級生の状態をみると、彼らの気持ちを理解できるのです。

 私は『轉法輪』を読んだ後、すっかり変わりました。ここで、『轉法輪』を読んだ後の体得をわかち合いたいと思います。私の体得を読んで、法輪大法のこと理解していない人に以前の観念を改め、法輪大法を理解できるようにと希望します。

 2020年、私は『轉法輪』を読み始めましたが、功法を学んでおらず、ただ法に照らして、自分を要求しようとしました。つまり、心性の修煉です。例えば、ある日、教室でクラスメートの何人かが、私が綺麗か、もう1人のクラスメートが綺麗かで、私たちをからかったのです。容姿がいいか悪いか褒められたいわけではなく、そんな風に他人のことを評論してはいけない、つまらないと私は思っていたのです。『轉法輪』で、「職場で、あるいは社会で評判が悪くても本当に悪い人とは限らず、逆に評判が良くても、必ずしも本当に良い人とは限りません」[1]と師父は、説かれています。確かにそうです。私たちは他人の口をコントロールすることができないので、言いたいことを好きに言えばいいのです。それは他人の事で、仕方がないことです。しかし、私がその後、そのようなことを気にしなくなったとき、クラスメートはそういう話をしなくなったのです。

 また、私は学校で食堂やトイレに行くとき、いつもクラスメートを誘わないと安心できなかったのです。1人で歩くと何となく、緊張しました。師父は「どのように守るのでしょうか? あなたが真の修煉者であれば、われわれの法輪が守ってくれます。わたしは根を宇宙に下ろしているので、あなたを動かせる人がいれば、このわたしをも動かすことができることになり、はっきり言って、その人はこの宇宙を動かすことができることになります」[1]と、説かれました。当時、『轉法輪』を読んで、師父の話がすごく威力があると感じ、「私は修煉者になりたい。師父の保護があるから、どこへ行っても怖くない」と思いました。

 もう一つの出来事があります。高校1年生のとき、クラスメートの大多数が「国語の先生がよくない。教え方がうまくない」と言っており、クラスの国語係さえも「国語の先生がよくできていない」と言いました。それで、私も国語の先生が嫌いになり、先生の講義を聞くのも嫌になり、心から国語の先生を拒絶する気持ちになっていました。その後、試験の後に国語の先生から試験についての反省文を書くようにと言われたので、紙に「先生、先生の講義はよくわかりませんが、それでも聞きます」と、私は書きました。本当は聞きたくもなかったのです。その後、国語の授業で先生が質問の答えを指名するとき、私の左側と右側の生徒を指名しましたが、私は指名しませんでした。しかも、こんなことが何度かありました。すごく悲しい気持ちになりました。考えれば考えるほど、悲しい気持ちになりました。「この国語の先生が悪い。私に偏見を持っている」と、思ったりしました。自分がその反省文に書いたことで先生を傷つけたのかもしれないとは思いもしませんでした。

 数日後、『轉法輪」を読むとき、「わたしはこうもお話ししました。われわれ一人一人がみんな内に向かって修め、一人一人がみんな自分の心性から探すようにし、うまくいかなかった場合は、自分に原因を探し、次回はうまくいくように努力し、何をしても人のことをまず考えるようにします」[1]と、師父が説かれました。

 「どうして師父の説法を忘れてしまったのだろう? どうして他の人のことを考えなかったんだろう? どうして、自分のうちに向けてを探さなかったのだろう」と、師父の法に照らしました。それは、そもそも自分の心の中に、この国語の先生を受け入れていないことが原因でした。

 先生は数十人という個性豊かな生徒を前にしています。先生に合わせるのは生徒であって、先生は生徒に合わせるのではありません。私は間違いました。クラスメートに従って、先生のことを評価してはいけなかったし、反省文にあの言葉を書いてはいけなかったのです。問題が見つかって、観念が変わり、心が軽くなりました。再び先生の授業になると、今までとは違う気持ちで聞きました。

 そして、「教師の日」には、カードに先生へのメッセージを書き、お祝いの言葉と自分の過ちを認め、許してくれるようお願いしたのです。その後、授業の質問の時間に先生に指名されました。すごく嬉しかったです! 自分に向けて原因を探せば、すべてが解決できると悟りました。今、心から国語の先生のことが好きになりました。経験豊富で、責任感があり、忍耐強く、「ちゃんと勉強しなさい」とよく言ってくれる、優しいお母さんのような先生だと感じました。

 法輪大法のおかげで、私はいろいろ変わりました! 師父、感謝いたします!

 初めて修煉体験を書きますが、次元に限りがありますので、法に合わない場合は同修のご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父著作:『轉法輪』

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/11/5/451436.html)
 
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