文/中国の青年大法弟子
【明慧日本2023年2月27日】私は子供のころから両親に従って修煉を始めました。当時は煉功のみを行い、時折大人と一緒に法を学んでいましたが、心性を修めることを知りませんでした。大人になり、遠く離れた学校に通い、さらに働くようになってから、私は徐々に気が緩み、煉功も怠けるようなりました。ただ一つ言えることは、どこへ行くにも必ず『轉法輪』と音声版の明慧週刊を持参することを忘れずにいて、それが何年も続いていました。正直、自分が大法弟子と言えるかどうか分かりませんでした。
あるとき、仕事中に熱が出て、微熱から高熱になり、4日間繰り返して熱が下がらないことがありました。「業を滅しているのだ。熱いくらいで命を奪われることはない。精々少し苦しむだけで、我慢すればよくなっていく。それに、両親に従い修煉してから一度も薬を飲んだことがなく、大人になった今、なおさら薬などは飲まない」と私は考えました。
しかし、7日目には事態は深刻になりました。仕事を終えて寮に戻ると、私はベッドに倒れ込んでしまい、食事をする気力もありませんでした。夜8時頃になると、私は歯がガチガチと音をたてて震えるほどの悪寒を感じ始めました。袖口とズボンの裾に風が入らないように、私は袖口を革のカバーで縛り、ズボンの裾を靴下の中に入れ、布団の上にダウンジャケットまで被せて、早く汗をかくような工夫をしてから目を閉じて、うとうとしているうちに眠りにつけばと思いました。ところが、10時過ぎになると、汗をかくどころか、全身が火の玉のように熱くなり、骨も皮膚も、肉までもズキズキと痛み、呼吸困難も伴いました。
目を開けてみると、視界がぼやけていて物がよく見えず、私は怖くなりました。パニックになればなるほど心拍も速くなり、息が吸えないため窒息しそうな気がしました。口を開けて息を吸おうとしても、吸うことも吐くこともできず、過呼吸ですすり泣きしながら、私は何かに口と鼻を塞がれたように感じ、心臓や頭のてっぺん、そして指先まで痺れていて、心臓がいつ止まってもおかしくないように感じました。目を開ける力がなく、涙がすでに目の中で溢れかえっていました。私は初めて死を間近に感じました。
急に母に電話をかけたくなり、携帯電話に触れた途端、私は躊躇しました。「母は電話を受けると、きっとびっくりして途方に暮れてしまう。ここは地方で夜中だし、彼女は来れない。来れたとしても助けることもできない」と考える中、師父のことが頭に浮かび、「煉功しよう!」と思いました。そのとき、私の頭にはもう余計な考えはなく、「煉功したい! 煉功しよう!」と言う考えしかありませんでした。何とか起き上がり、ベッドから降りた途端、私はドスンッと膝をついて降りました。懸命に呼吸しながら起き上がって、またしゃがみ込み、何度も休みながらやっと第一式の功法をやり遂げました。
二式の功法の音楽(30分)が始まった時、私は「できるのか?」と思いながら、師父のお声に従い腕を持ち上げました。体に力がないため、「頭前抱輪」が「頭頂抱輪」に見えるほど、私の体が90度近く曲がっていました。15分ほど震えた後、頭頂抱輪の動作をしようと私は強く息を吸いこみ、力強く腕を持ち上げようとしました。腕を上げてから約1分後、突然、一陣の熱い流れが頭のてっぺんから下へと全身を駆け抜けていき、たちまち汗が流れて呼吸も爽やかになり、視界がはっきりしてきて、骨の痛みもなくなりました。私はすぐに背筋を伸ばし、涙が止まらなくなりました。汗混じりの涙が前襟に滴り落ち、全身の服が汗だくになったとき、私は第四式の功法を終えました。
こうして私は泣きながらシャワーを浴び、泣きながら洗濯を終え、夜明けまで泣いていました。この涙には、師父が新しい酸素と命を与えて下さったことに対する感謝、私がまだ弟子であるという師父からのお告げに対する感謝、そして修煉の自信を取り戻す勇気を与えて下さった師父への感謝の気持ちがありました。また、この涙には自分を恥ずかしく思う気持ちもありました。師父が延長して下さった時間、師父が心血を注がれていたこと、そして師父の時々刻々の弟子へのご加護を大切にしていませんでした。
その後長い間、私はよく涙を流す状態にいました。街角を歩いているときも突然、涙が出たりしました。なぜなら、師父の慈悲に満ちた場を常に身近に感じていたからです。
合掌し、跪いて師父を拝みます!