シンガポール法会|私がプロジェクトを助けるのではなくプロジェクトが私を鍛えている
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文/シンガポールの大法弟子

 【明慧日本2023年3月9日】

 尊敬する師父、こんにちは!

 同修のみなさん、こんにちは!

 私は1996年に家族と一緒に修煉を始めました。学法煉功は続けてきたものの、大法とは何かをよく理解していませんでした。海外に来て、グループ学法に参加し、法を広める活動に参加してからはじめて、修煉とは何か、法を正す進展にどうやってついていけるかが分り、衆生を救う緊迫感を感じました。絶えず学法し、心を修め、いくつかの人を救うプロジェクトに参加することで、個人の修煉から全体に協力することに溶け込むことができました。プロジェクトに参加することで人を救うことができると同時に、グループで仕事をする中で自分の執着が明らかになり、それらに気づき、取り除くことができました。全体的な環境のおかげで、私はより速く向上することができ、法理に対して絶えず新たな認識を持てるようになりました。今日は、プロジェクトに参加してからのここ数年間の私の修煉体験を同修のみなさんとシェアし、師父にご報告したいと思います。

 私は、メディアの仕事に携わった時、最初は何も分からなかったので、以前から携わっていた同修の指導を頼りにしていました。立ち上げたばかりのプロジェクトだったので、発展の方向性や仕事の内容、仕事の分担、スキルアップのトレーニングなど、誰もが見当がつかず、困り果てていました。しばらく学習し、模索するなかで、プロジェクトは進んでいきました。その一員として、私は自分のスキルアップに励んでいました。

 しばらく経った時、このプロジェクトの責任者である同修が何らかの原因で継続することができなくなりました。プロジェクトはまだ始まったばかりであり、人員もまだ確定されておらず、本当に何も備わっていない状況でした。その時、このプロジェクトは続けられないのではないかと、誰もが戸惑っていました。

 メディアの責任者は何も言わなかったのですが、彼らがみな非常に焦っていることを私は知っていました。始まったばかりのこのプロジェクトは、現在の社会の主流に向けていて、うまくやればメディアの発展に大いに貢献することができましたので、世界中のメディアがみなこの分野の突破口を探していました。一定期間の学習を通して、自分はこのプロジェクトの基本的な知識と発展戦略についてある程度理解できたと感じました。そこで、自分がこの責任を負い、プロジェクトの協調の仕事を引き継げば、プロジェクトが途中で終わってしまうことを防げるのではないかと思いました。

 当時はすごく葛藤していて、自分のスキルに自信がなく、類似した仕事をしたこともなかったので、プロジェクトが一旦台無しになったらどうしようかと思っていました。また、一部の同修をつれて一緒に仕事をする必要もあり、責任が重すぎました。同時に、プロジェクトが一旦止まってしまうと、人を救うことに損失をもたらすことをも心配しました。その間、トラブルが入り混じり、とても辛い思いをしました。でもその時、このプロジェクトの方向性は正しいので、このまま続けるべきだという一念がありました。もしこのプロジェクトをリードする人がいなければ、何といっても自分は常人のなかでの能力は少し持っていたので、どのようにやればよいかはっきり分かっていなくても、何が何でもこの責任を負わなければならないと考えました。

 数日悩んだ末、メディアの責任者に自分の考えを伝えたところ、その責任者はすぐにプロジェクトを引き継ぐことに同意してくれました。私は嬉しく思うと同時に心配もしました。当時、私は人々を救いたいという情熱を持って、当時の自分の次元で自分がやるべきことをしたいと思っていましたが、このプロジェクトで自分の能力を顕示したいという汚い心が隠されていることに気づきませんでした。 

 まだスキルは完全に習得していませんでしたが、私が作った動画が同修に認められたことが何度かあり、やはり自分はできる者だ、学習能力が高いとうぬぼれていました。何度か経験した後、この執着心が強まり、心の中でこの自己満足の感覚を楽しんでいました。プロジェクトを引き継ぐことに同意したとき、私は自分の正念が強い、人を救うことが差し迫っていることを口実として、心の中にある見せびらかしたいという微かな顕示心を覆い隠していました。

 このような心には、独りよがりの心が含まれていました。自分の知識レベルが少し高いし、少し経験があるというだけの理由で他人を見下し、また嫉妬していました。これらは強い口調に現れていました。うわべでは、これはプロジェクトの規定だからこのようにやらなければいけないと言いました。他の人が私の提案に同意しない場合、口には出さないが、自分の提案が良いと思い、心の中でぷりぷりと腹を立てていました。

 その時、ある同修から直接、あなたの話し方にはストレスを感じる、口調が強すぎるとのフィードバックがありました。それを聞いて、顔が赤くなり、とても複雑な感情がこみ上げてきました。私も非常に悩みました。自分が言ったことはすべてプロジェクトのためだ、こうしないのはまちがいである、期待した結果が得られなかった場合、それは時間の無駄ではないかと心の中で言いました。また私はプロジェクトに貢献しているのに、なぜ他の人が理解できないのか? 私はとても落ち込んでいました。心の中で師父に尋ねました。どうして協調することはこれほど難しいのでしょうか。誰々は精進しておらず、協力することを知りません、どうすればプロジェクトをうまく進めることができますか? さらに自分がこのプロジェクトに参加するべきではないのでは? なぜ私がやらなければならないのか、と心の中でマイナス的な考えさえ浮かんできました。

 ちょうど私が悩んでいたとき、ある日、明慧ネットに掲載された同修の交流文章を読みました。その文章の原文はすでにはっきりとは覚えていませんが、大体次のような内容でした。秋のカエデの葉は皆異なる色と形をしており、美しい紅葉の風景を描いている。全ての葉は色も形も様々で、それらの間に競争や比較はなく、自然にそこに一幅の絵のような風景を織りなしている。

 また、満天の星について思いをはせると、大きさがさまざまで、少し明るいものも、暗いものもあり、互いに比較し合ったり、自分の明るい光を誇示したりすることもなく、自然に絢爛豪華な銀河とにぎやかな宇宙を形成しています。そう考えると、私の心は突然悟りが大きく開いたように感じました。同修はみな同じ大法を学んでおり、宇宙のさまざまな位置や次元で異なる理を悟っています。師父の大法はすべてを含め、すべてを創造し、私たちの存在も私たちの次元での無辺の仏法の現れです。

 師父は次のように説かれました。「もちろん、大法のプロジェクトで何かを行うとき、できるだけ自分のことを放下し、プロジェクトに必要なことをやり遂げるべきであり、これは最も重要なことで、だから協調が必要なのです」 [1]「しかし、取り組んでいる過程で自分のやり方の特徴が現れ、修煉の中で自分の道を歩んだことになります。このことは師父が認めておられ、批判すべきことでもありません。皆さんも必然的にこのように行います。皆、同じ型から出されたようにまったく同じであれば、それはあり得ないのです」 [1]

 人はそれぞれ異なり、一つの問題に対する見方や考え方が違い、議論して決めた問題であっても、異なる同修がそれを実行すれば、異なる方法を用い、異なる結果が得られるかもしれません。これも同修らが法のなかで歩む道であり、私のわずかな知恵では、すべての人を理解することはできません。すべての不愉快と悩みは、自分の認識を固守し、同修のより良い提案と自分よりも優れた能力への嫉妬から生じています。そして自分がこのプロジェクトの責任者ということでうぬぼれ、自分がプロジェクトの中の普通の一人にすぎないことを忘れれていました。修煉して自分の次元を向上させることこそ、プロジェクトをよくやっていく根本です。

 観念を変えると、同修の一人一人がとても敬うべき存在であることに気づき、同修の精進に感動し、同修の良い行いに感心しました。観念が変わるとすぐに、プロジェクトの協調が非常に難しいとは感じなくなりました。

 以前の私は、心の中の怒りや不満を無理やり抑え込んでいましたが、今は自然に受け入れ、寛容できるようになりました。一体何が起こったのでしょうか?  これまでの利己的で自己中心的な考えは、堕落した宇宙でできた物質であり、真の自己を葬っていました。それゆえにどうすればいいのか分かっていてもそれができませんでした。私が自分の欠点を見つけ出し、よくやろうと努力した時、師父は私を助けてその物質を取り除いてくださり、真の自己を葬っていた物質を一部洗い流し、私を少し昇華させ、その現れは私がより穏やかで単純になったことにありました。

 今ではプロジェクトの同修に問題があっても、私はリラックスしてプロジェクト自体に執着せず、​​同修らと穏やかに話し合い、経験をまとめ、次回によりよくやるためにどうすればいいかを見ることができます。同修が怠け、先延ばしし、その日暮らしをし、苦労することを恐れているのを見ると、たとえ私がどれほどぷりぷりと腹を立てても、自分にもこの心があるから、この現象が私に見えたのではないのかと自分に問いかけることができます。

 その時に私は、往々にして同修の振る舞いが自分にとって鏡のような存在で、私にまったく同じ問題があることを見せてくれることがよくあることに気づきました。私もしばしば先延ばしして、ギリギリまで行動を起こさず、表面上はきれいに隠していただけで、これは逆に私がそれを晒して克服し、取り除く最もいい機会でした。

 その後、このプロジェクトはまた別の苦難に直面し、プロジェクトの衆生を救う力、仕事の方向性などに疑問を呈する人が現れました。以前は、私もプロジェクトで困難に遭遇した時に心の中で考えていました。このプロジェクトは人を救うのに効果的なのでしょうか? このプロジェクトに参加し続けるべきでしょうか? 他のプロジェクトは衆生を救うのにより効果的ではないでしょうか? プロジェクトが遭遇した苦難が多ければ多いほど、それが絶望的に​​見えれば見えるほど、これらの考えが強くなります。

 法を学ぶことによって、私は一つの理を知りました。私が出会ったプロジェクトは偶然ではなく、師父の慈悲なる按排や、私の以前の誓い、そして私の修煉のなかで執着を取り除き、向上する要素が含まれていました。師父の按排が一番いいと実感しました。困難に直面したとき、最初の一念がプロジェクトの人を救う効果であり、それを他のプロジェクトと比較することは、実は利益の心、差別する心、威徳の追求、苦をなめたくない、近道を歩みたいという執着が作用していました。表面的には聞こえがよく、他のプロジェクトの方が人々を救う力が大きいと言っていて一見すると人を救うことに責任があるように見えますが、実際には取り除きたくない執着を隠すための言い訳でした。

 私が、ここ数年にわたって次々と携わってきたプロジェクトや私がいた環境は、それを利用して私が真の修煉とは何かを学び、同修と互いに学びあって修め、同修との差を見つけ、執着を取り除くと同時に速やかに向上し、同時に私の協調能力を鍛えるための師父の按排だったのだと理解しました。本質的には、プロジェクトが私の力で発展しているのではなく、プロジェクトという大きな溶炉が常に私を鍛え、私が向上するのを手伝っていました。この変化と昇華の過程こそ、私が向き合わなければならないものです。それは、よい状況や逆境の中で発したすべての考え方、どのように自分を見ているのか、どのようにプロジェクトに対処しているのか、自分のためなのかそれとも他人のためなのかを含めて、人心で考えるものではありません。師父が私のために用意してくださった全てのことにどれほど心をつくしてくださっているのかを感じました。

 心の容量が増えたので、プロジェクトの仕事とは別に、常人の仕事と生活の中で縁がある人を見つけて真相を伝えるべきだと思うようになりました。身近にいるまだ真相を伝えていない中国人や、真相を伝えたが、三退をしていない人にはまた続けて真相を伝えなければなりません。

 仕事をする中で「我(われ)」と「私(し)」の考えが徐々に減って行けば、縁がある人々が次々と真相を聞きにやって来てくれるでしょう。どんなに時間が少なく、やるべき仕事が多いとしても、私がもう少し精進して法に則っていれば、法が私に知恵を与えてくれていると感じることができ、行うべきことを気楽に順序よく行うことができます。逆に、少し緩めると、とても疲れを感じ、やるべきことが多すぎて追いつけないと感じます。

 三年間のパンデミックの中、世界は激変しましたが、変わらなかったのは、日々自分自身をしっかりと修煉し、絶えず変化する世界情勢の中で、法のなかで修め出した知恵を使って世の人々を救い済度し、三つのことをしっかり行うことです。毎日の時間が、どんどん短くなっていくように感じ、少しでもボーとすると数時間が過ぎていきます。時には私も難しさを感じ、名利を求める心や顕示心、歓喜心、色欲の心、安逸を求める心などの執着に絶えず妨害され、持続的によく行うことができず、修煉状態は常に起伏があります。その時、プロジェクトの同修が精進して学法し、人を救う例が、すぐに私に自分の状態を調整するように促してくれます。また、明慧ネット上の同修の交流文章も、同修が世間で奇跡を起こしている壮麗な画面をいつも見せてくれています。それをみると突然私の執着が非常に小さく見え、私の自信を強めてくれます。

 新しい一年に、私は引き続きしっかり三つのことを行い、師父の法を正す進展に追いついて行き、自分が過去にうまくできなかったことに執着することなく、着実に内に向かって探し、人心を取り除くことを重視し、毎日の仕事をしっかり行い、私が出会うすべての縁がある人に慈悲をもたらします。法を正す時期の大法弟子という称号にふさわしく振る舞って行きたいと思います。

 師父に感謝いたします!

 同修に感謝いたします!

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『各地での説法十二』「二〇一三年大ニューヨーク地区法会での説法」
 
 (2023シンガポール法会文章)

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/1/9/454674.html)
 
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