--大法弟子の正法修煉の勇壮な歌(二)
文/黒竜江省の大法弟子
【明慧日本2023年4月9日】(前文に続く)
7.小さな町での修煉の饗宴
(1)法輪大法修煉交流会
法を学び始めたころ、個々の同修は互いに自分の経験を語り合い、かなり早く向上したように感じました。徐々に学法点で交流するようになりました。その後、向上したいというみんなの強い願いから、いくつかの学法点を形成し、みんなで交流しました。
このほか「二旅社交流会」と「牧校交流会」という大きな二つの交流会がありました。この二つの修煉体験交流会はいずれも地方の同修が参加しました。法輪大法の修煉を始めて奇跡が起きたことや個人の心身の変化を語ることで、発言したすべての同修が心の底から偉大なる師父に感謝を申し上げ、新しい修煉者に修煉の神聖さを理解するように促し、すべての大法弟子がみなこの万古に会えない宇宙大法をさらに大切にしました。
(2)書画展
小さな町で初めて開催された法輪大法書画展では、法輪功修煉者が丹念に制作した回転する(時計回りに9回転、逆時計回りに9回転)法輪、修煉者たちがきちんと丁寧に書き写した『轉法輪』、さらには多くの刺繍作品、さらに多くの書画作品が展示されました。
1998年5月、農業技術学校の3階で、第2回法輪大法「書画・刺繍作品展」が成功裏に開催されました。その時は絵画や書、刺繍など、300点以上の作品が展示されました。その作品はどれも輝きを生じ輝いていました。大法修煉者が作品展の「序文」で書いた「一筆一画、一針一線、一字一句に広大な縁ある士の佛を敬う気持ちと大法修煉者の恩師への敬慕の心がすべて込められています」と、まさしくそのとおりでした。
この時の展示会には近隣の県と市の大法修煉者が知らせを聞いて参観しに訪れて来ただけでなく、さらに多くの人が続々とやって来ました。法輪功修煉者の作品を見た多くの人は、法輪大法とその創始者に対する敬慕の心が生じ、敬服と称賛によって多くの人が大法の修煉に入りました。
1999年、大法弟子が小さな町で第3回法輪大法「書画・刺繍作品展」を開催しようとした時、法輪大法に対する迫害の邪な風が強くなり、作品展を開催することができなくなりました。
その作品展の、第1回、第2回と最も大きく異なった点は常人の芸術家の参加でした。すでに多くの常人の芸術家がこの作品展のために詩や絵画を制作していました。しかし、常人の芸術家たちの作品は法輪功修煉者の作品とともに、警察によって大法修煉者の自宅から不当に押収され、その後廃棄されました。
多くの市政府の関係者が作品を見て、大法修煉者の芸術的才能と法輪功修煉者が書画を揮毫した多くの青年と年配者の芸術家がいたことに驚嘆しました。
二、荒れ狂う風雨の中で粘り強く前へ進む
1.法を守るために命を捨て暴力に抵抗する
1999年7月20日、江沢民は法輪功への弾圧を開始しこの小さな町にも暗い影を落としていました。法輪功のために正義を求め汚名を晴らすために、大法修煉者は命を犠牲にして、陳情という困難な道を歩んできました。
陳情の道を断つために、悪人たちは連行、不法な拘禁、罰金、家畜の没収、土地の没収、給料と仕事の停止、刑罰の駆使、洗脳班への拘禁、労働教養所への拘禁、不当な判決などを用いて大法弟子を迫害しました。北京に陳情に行った大法修煉者は連行され、拘置所、第一留置場、第二留置場に不当に拘禁されました。人数が多くなり拘禁しきれなくなると各洗脳班に拘禁しました。小さな町だけでも5カ所の洗脳班がありました。
2001年の春節(訳注:旧正月)のある日、ある小都市の市長が省長の前で「春節(訳注:旧正月)期間中、北京での大法修煉者の陳情をゼロにすることを保証する」と承諾したことがきっかけで、その日、市党委員会書記、鎮党支部書記、公安局、各警察署、各街道弁事所主任、各鎮・郷政府所属の組織が大勢の人員を動員して大法修煉者を自宅から連行しました。
町内のある大規模な洗脳班だけでも、80歳から3歳児まで1000人近くが不当に拘禁されていました。この洗脳班は2001年6月になってやっと解体しました。大法修煉者は、罰として立たされる、ひどく殴られる、灌食、凍えさせられる、首を絞められるなどの迫害を受けました。旧暦の12月28日、80人以上が強制的に労働教養所に送られました。
旧正月には洗脳班に強制的に拘禁され、労働教養所に送られ、留置場に拘禁され、年寄りは子供を心配し、若者は親を心配し、子供は親を思って泣きました・・・この情景は小さな町の人々にとって、それは一家が離散した年であり、親族が団らんできない年であり、拷問によって迫害を受けた暗い年でした。大法修煉者の家族や親戚にとって、自分たちの苦しみを訴える場所はなく、あえて怒りを口にすることもなく、今でもあまりのひどさに回顧するに堪えないほど大きな苦悩と混乱と戸惑いの年でした。
2.衆生を呼び覚ます資料拠点の設立
洗脳班は郷、鎮、村の全てで同時に始まりました。同修たちが苦労して築いた資料拠点は破壊され、同修が連れ去られました。迫害に直面し、大法修煉者は一家離散し、家族を滅茶苦茶にされ、路頭に迷い、そのために命を失うような状況下に置かれました。不公平に扱われ、陳情する方法はなく、道理を説明するところがない圧力の下で、修煉者は真理を堅持し、この地域の人々を救い済度するために、人々にはっきりと真相を伝えることを決意しました。この決意がきっかけで、村人たちに様々な形で真相を伝える長い道のりが始まりました。
唯一の資料拠点が中国共産党(以下、中共)によって破壊された後、すべてがゼロから再スタートしました。地方の同修に技術を教えてもらいたいと頼んだのですが、どこに家屋を探せばよかったのでしょうか? 中共の規制が厳しい中、誰がそのような借家を借りる勇気のある人がいたでしょうか? 不足している機材はどこで購入できたでしょうか? 資金調達はどうすればよかったのでしょうか?
修煉者には大法がありました。みんなが法を学び、法の中で元気づけられ、知恵を得ました。ついに同修の親戚が部屋を貸してくれることになり、機材は同修が支援してくれた古いもので、緊急に追加で必要な物は知恵を尽くして方法を考えて購入し、オペレーターが技術を持っていることは言うまでもなく、師と法を信じることで、少しずつ経験を積んでいなければなりませんでした。
資金は同修からの臨時の寄付や一時的な拠出でまかなわれました。お金が届けられると、そのほとんどが1元紙幣の束と1角と5分が何十枚も入っているもので、同修はお金を手にして涙ぐみました。同修は感動のあまり言葉を失い、なぜなら当時、同修たちの多くは中共の迫害を受け極貧状態で、自分さえ生きる術を失っていたからでした。都会では同修が仕事も給料も止められ、農村では家畜を不当に差し押さえされたり、土地を差し押さえられたりしていました。
しかし衆生を救い済度するために、同修たちは自分たちがどうやって生きていくのかということは考えませんでした。お金はかき集めても、心はかけがえのないものであり、無上のものでした! このようにして、小さな町の真相資料拠点は差し迫った必要性の中、嵐の中で設立されました。
小さな町の初期の真相資料は、技術が不完全であったため、片面のみしか印刷されず、糊も使われませんでした。それにもかかわらず、人を救うことを怠りませんでした。夜になると街角や路地裏に行き、壁や電柱に真相を伝える貼紙を貼り、一人が糊を塗り、もう一人が貼り付けるということを同修たちが2人1組、3人1組になって繰り返しました。
持っている真相資料が多い時は、人手を省いて速く貼るために手で糊を塗り、手元から資料を出して貼り、また糊を塗り、また手元から資料を出して貼るということを繰り返すこともありました。資料を貼り終わると、服も糊だらけの服になりました。
3.様々な真相ののぼりと貼紙
より多くの人を救うために、同修は大法を広め、人々に真相を理解してもらうためにあらゆる努力を重ね、多くの方法を考えてきました。5月と8月の節句には「法輪大法はすばらしい」と印刷された色とりどりの紙でできた三角形の小旗を、通行人からよく見えるように小垂れ幕にして並べて目立つところに束にして掛け「法輪大法はすばらしい」と書かれてあり、通常、背の低い木に手で吊るされました。
このようにして大法弟子たちは、日々、年と共に法輪大法のすばらしさを広め「法輪大法はすばらしい」の垂れ幕が小さな町を照らしました。
また夜中にスプレー缶で「法輪大法はすばらしい」「法輪大法は正法である」という文字を壁に吹き付ける同修もいました。数カ月後には基本的に町全体に及びました。中共は仕方なく白い灰で塗りましたが、灰が乾くとやはりいくつかの文字の形と色がはっきり出てきました。
同修が文字を吹き付ける過程でちょっとしたハプニングがありました。大法弟子が夜中に「法輪大法好(法輪大法はすばらしい)」という文字を壁に吹き付けたところ、最後の文字になった時、遠くからパトカーのライトが迫ってきたのですが、同修は恐れずに「好(すばらしい)」の文字を壁に吹き付け終えました。
噴き付け終わった後、その同修は手袋を外し、スプレー缶を持って立ち去りました。その時、パトカーから警官が降りてきてスプレーで塗られた壁の前にやってきました。警官は懐中電灯を手に取り壁に書かれた文字を見ました。そしてその文字をスプレーで吹きかけて、去っていった人を振り返りました。その人を見た後、警官は再び壁に書かれた文字を見ました。そのように警官はただ文字を見て、人を見て、文字を見ているうちに、同修はすでに無事に遠くへ行ってしまいました。
(続く)