文/海外の大法弟子
【明慧日本2023年4月19日】死は人生の法則の一つであり、どの家庭でも、どの人も、一生に何度も出会うものです。 ここ数年、長年修煉を積んできた同修の中には、死をまだ見抜いていないためか、目で見たものは確実だと思うのですが、自分の目で見たこともなければ肌で感じたこともないので、家族の死に遇うと、或いは両親が高齢で亡くなった場合、非常に悲しい気持ちになり、追憶や後悔、無念な思いに浸って、なかなか抜け出すことができない同修が多いことに気がつきました。 実際、どのような視点であれ、生きている者にとっては、過去の思い出を大切にし、そこから成長し、成熟し、今後の人生をよりよく送ることこそ、自分では選べない前提の下での最も良い選択なのです。
その喪失の痛みは、東洋文化の概念とも大きく関係しています。西洋文化には、輪廻転生という明確な概念はありませんが、亡くなった人の生前の良い思い出や、死後の安息、そして、未来で故人との再会を重視します。それに対し、東洋文化は、生きている者の喪失感に重きを置いているようです。 ここで言いたいのは、修煉者としては、身内が亡くなった場合、あまりにも心を動かされるようであれば、やはりそこから抜け出す気持ちを持たなければなりません。それがとても大切なことなのです。
以前、夫が亡くなり、孫娘が亡くなった中高年の同修に会ったことがありますが、その同修はひどく悲しみに暮れ、現実に対しての理解と受け入れがなかなかできず、何年もかけて、周りの人に「なぜ」、「どうして」と問いかけ、自分を苦しめ、疲れ果てることになりました。ある同修も家族が亡くなって、家の中で一番目立つ場所に故人を供え、食事だけでなく『普度』、『済世』という大法音楽も聴かせていました。これは亡くなった人に逆に負担をかけていることになり、執着しすぎて、まったく故人のことを考えていないのです。また、配偶者あるいは両親が亡くなった後に気持ちが落ち着かず、生きる意味を失った同修がいたなど、多くの事例がありました。
常人の理で見れば『周易・損』は「山には沢があり、君子は怒りを懲らしめることによって欲望を窒息させる」と言いました。その意味は、山は地から高く、沢は低く、水沢の低さは山の高さを映し出している。君子は山が高く水が低いのを見て、自分の怒りをやめ、自分の欲望を無くし、自分を損なわず、水沢ではなく高い山になることを知っておくべきです。
修煉の理で見れば、個人修煉の時期に師父は次のように説かれたことがあります。「人間が死亡した時、あなたの最大の一層の分子、つまり人間のこの身体、表面にあるこの分子がこの空間で死亡し、脱落します。更に本当にミクロ的な物質で構成された、あなたの身体がなぜ死亡するでしょうか?」 [1]
現代人が言う死は、生命の本当の死ではありません。そして、生死を隔てた両者の、どちらか一方が手放せなければ、双方に複雑な結果をもたらす可能性があることは、修煉者にとって理解し難くありません。常人の中には、死んだ人が生前の人や出来事を放念としないならば、次に行くべき場所に移行できない原因になるという趣旨の映画があります。これは必ずしも正確ではないのですが、宇宙における真相の反映でもあります。逆に、生きている人は手放さないと、亡くなった人も安らぎと解脱が難しく、影響を受ける可能性があります。
私は修煉者ですが、父が旧勢力に連れ去られたとき、私もひどい悲しみと苦しみがあり、良い時も悪い時も何年も続きました。過去のその時を振り返ってみると、死は死ではないことは重々承知していますが、それでも耐えられない苦しみがあったのはなぜでしょうか。 それは、父と仲良く充実した時間を過ごす可能性が永遠に奪われてしまったことに対する悔しさでした。 手放して初めて安心し、心が落ち着きました。
死を見抜けないということは、実は生を見抜けないということです。無数回の死がなければ、私たちは今日、人間として生まれ、師父と大法と共に世の中に生きる機縁はないのです。生死を見抜くことこそ、私たち修煉者にあるべき度量の広さと境地であり、その欲望は新しい宇宙に持ち込めないだけでなく、故人と生者の双方を苦しめることになります。
「試練の前で真性を見る」 [2]という師父のお言葉を一緒に覚えて、人生や修煉で遇うどんな試練も、本性を出して直視してみましょう。実際に生死を見抜くと、生死は私たちに対する試練ではなくなります。
個人の現在の拙見(せつけん:愚見・愚考)ですが、この問題を考えたいと思っている同修と分かち合いたいです。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『長春輔導員法会での説法』
[2] 李洪志師父の著作:『精進要旨二』「真性を見る」