へつらうことと自らの心から魔が生じること
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 【明慧日本2023年7月4日】法を正す修煉が24年間、経ちました。中共の法輪功への迫害は主に中国大陸で行われていますが、海外の修煉環境も年々、問題が蓄積され、人を救うことの妨げになっただけでなく、ほかの古い学習者の修煉にも影響を与え、新しい学習者を誤らせたのです。そのうち、他の人にへつらい、自分自身を誇示する現象は多くの地区、プロジェクトで日常茶飯事のようになっており、多くの人はそれが当たり前のことだと思い、この現象を助長しています。

 現象

 一部の人は言葉巧みにまくしたてて他の人を持ち上げ、あらゆる場面を利用して自慢し、自らの地位を確立しようとしており、修煉者という集団で名と利を求めています。一部の人はうまく立ち回るために相手にへつらっています。功能に傾倒しているため、相手を崇めている人もいます。また、お世辞や扇動、仲たがいさせることなどを通じて学習者を引き摺り下ろした、学習者に扮したスパイもいます。遂行すべき大法の仕事を行ったから、自分がこの上なく有能で、右に出る人がいないと思っている人がおり、ことあるごとに自分を基準に相手に従わせようとしています。一部の人は少しばかりの功能が現れ、お世辞を言われたため、有頂天になり、場合によっては自らの心から魔が生じてしまったのです。

 一部のプロジェクトと地区では、このような人と出来事が現れ、長い間存在していますが、皆さんは今までのように法をもって量ったり、自らの修煉の機会として捉えたりしなくなりました。ひいては良くない人と出来事を支持し、法にそぐわない人と出来事が主流になるまで放任しています。

 事例

 最近、ある台湾の新しい学習者はいい例です。この人は約10年前に神韻公演を鑑賞したのをきっかけに、法輪大法の修煉を始めました。天目にいくらかの光景が見えたため、悟性の劣っている学習者に持ち上げられ、その人は徐々に大口を叩くようになり、自我が膨張してしまいました。自分の天目で見たことと現れた光景を基準にし、非常に限られている、真偽が入り混じった、自分が正しく理解できかねる事象を基準に、他の人の修煉を「指導」しています。聞くところによると、その後、この学習者はガンジンワールドのプロモーションに多くの不満を持ち、同社関係者や「山にいる古い学習者」、芸術団の一部のメンバーが無責任に広めた噂を聞いたため、最終的に魔に利用され、公然と師父を否定し誹謗中傷し、世間を騒がせるたわごとを言うようになってしまったのです。法を読んだのに師父のデマを広めたり、師父を誹謗中傷し、人を救うことを破壊する生命を真、善、忍で量れば、その人はまだ良い人なのですか? 最も悪い人に成り下がったのではありませんか?

 「私はなんと有能だ」「あいつらは全部ダメだ」「きみたちは私の言うことを聞け」、このような現象は、真に修めている古い学習者が正しく見分けることができるはずです。できなければ、それはすなわち自分の修煉が足りておらず、精進すべきだということを意味しています。

 一部の海外の学習者がすでに知っている例ですが、十数年前に大陸から海外にやってきた人で、一般社会向けのソーシャルメディアで自分をおだて、個人の名と情、および自分が「英雄」だといううぬぼれを満たしながら、大法弟子を貶したり叱責したり、明慧ネットを否定したりしています。追随者には、中共スパイと修煉中に困難にぶつかった学習者が入り混じっています。大陸から出てきてセルフメディアを運営しているもう一人の学習者は、表では責任者の善意な忠告を受け入れていますが、実はずっと常人の心で対処しています。しかも、他の学習者が彼女を持ち上げています。真相を伝えることは、つまり三つのことを努力することであり、しっかり取り組み、師父に心配をかけないようにすべきです。しっかり取り組む過程はすなわち修煉が向上する過程ですが、一部の学習者は自分が傍観者だとでも思っているのですか?​​​​​​​

 師門を裏切った修煉者は古代では、破門されることになりますが、大法は人間に慈悲深いので、迫害という大きな社会情勢の下で、不本意ながら「誓約書」、「三書」、「五書」を書いたとしても、もう一度修煉する機会、もう一度しっかり行い、損失を挽回する機会を与えています。しかし、もう一度修煉することは、出発点が低くなったことを意味します。新しい学習者になっただけではなく、公然と師と法を誹謗したことの罪業を持っています。このような人に対して、真に修める人はお世辞を言ったり、羨ましがったりすることなく、理性をもって善を勧めるしかありません。しかもこのことに執着してはいけないのです。

 正に帰す​​​​​​​

 最後の審判を前に、全ての人は自分の言動に対して責任を取ることになります。大法は人を熔煉することができ、高炉の熔鋼は一片の木屑を簡単に溶かしてしまいますが、自分の空間場に付着している人心、新宇宙の基準に準じていない観念を溶鋼に放り込む意思と勇気があるかどうかは、個人の選択になります。自分がどのように修めるのかは自分自身のことですが、あなたの言動が他の学習者の修煉を妨害したなら、このことの性質が変わり、大きな罪業を積んだことになります。​​​​​​​

 古代には「君子の交わりは淡きこと水の如し」という言葉があります。神伝文化では、「誇」という漢字は「言」「大」「亏​​​​​​​」(訳注:kuiと発音し、負けるという意味)から成っています。『修める者はおのずとその中にいる』と題する大法の経文では「修煉者として、常人の中で遭遇した一切の苦悩は、みな関を乗り越えることであり、遭遇した一切の褒めたたえは、みな試練なのです」と説かれています。この経文は1999年以前に法を得た多くの古い学習者はかつて熟読していました。中共の拷問が我々の身に降りかかっていないにもかかわらず、我々は自ら法に基づいて修煉し到達した境地、正念、正行、正気を水泡に帰してしまうのですか? それは間違いなく我々の修煉の初志ではなく、大法の教誨に溶け込むことによって得たものでもありません。百年近く共産邪霊が世界を統治しており、邪霊が押し付けた汚染物を修煉者は洗い落とさなければならないのです。

 正常な社会では、神伝文化の伝統的な価値観を保持している人々は世論と発言に簡単に左右されることなく、「その人の言葉を聞き、その行いを見る」ことを重視しています。つまり、何を言ったのか、どのように話したのかを見るだけではなく、どのように行動するのかも見てから、自分で理性をもって判断するのです。​​​​​​​皆、「真相を伝え」人を救うという言葉を口にしていますが、忘れてはいけないのは自分自身の実際の道徳境地が人間世界という大きな舞台のスポットライトに当てられており、これは真相の重要な部分を構成しています。自分の言動は、自分自身が法を学び法を得ているかどうか、本当の修煉者であるかどうかを反映しています。我々大法弟子は真に修める者になろうとしています。​​​​​​​

 皆さんはもう一度、経文を読み直し、各自教訓を汲み取り、自らの心から行い、もう一度しっかり取り組むよう期待しています。特にボランティアとして佛学会と補導点に関わった責任者は、どうか責任をしっかり果たしてください。皆さんの先頭に立ち、我々の環境が、人心を洗い落とし、誠実かつ善良で、絶えず心性の境地を高める修煉者の環境になるよう修めてください。その神聖なる持ち場に申し訳がたつようにしてください。​​​​​​​ 

 

明慧編集部     
二〇二三年七月三日   

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/7/3/462615.html)
 
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