新経文は常人向けに配布しても良いのか?
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 【明慧日本2023年7月5日】師父が世人に向けて書かれた二つの文章、『なぜ人類が存在するのか』(1月20日)と『なぜ衆生を救い済度するのか』(4月17日)が発表されて以来、それに関連するメッセージが中国本土から毎日のように明慧編集部に届いています。主に三種類についてです。一つは、広範囲に配布してよいかについて議論し、なかなか決まらないこと。もう一つは、一部の人が広範囲にわたってむやみにばら撒いていること。そして三つ目は、面と向かって話してから手渡すのは時間がかかりすぎることです。

 同修の皆さんが経文の配布に慎重に対処しようとしている行為は、修煉者の善の念および理性によるものです。しかし、これは配布できるかどうかという単純な問題ではありません。肝心なのは、師父がすでに按排されたことを私たちは理解する(または理解して悟る)ことができるかどうか、受け入れることができるかどうかです。

 古い学習者は皆知っているように、新経文はいつも目的があって発表されており、特に学習者の修煉における解決すべき、影響をもたらしている問題に向けて発表されています。前述の二つの短文は世人のために書かれており、世人が救われる必要性に応じて、法を正す進展において法がこの世を正すまでの過渡期の必要性に応じて書かれたのです。

 この二つの短文は、海外ではわずか少量の印刷物しか配布していません。主に縁のある人々は特定のウェブサイトで読んだり、見たり、聞いたりしています。中国本土の学習者が本土にいる世人に配布したければ、自らの判断の下で適切に行う必要があり、かつ各自の条件に合わせ、対象または地域の状況に応じて適切に行う必要があります。

 私たちが人を救うときは効果を重んじ、自分の気持ちや配布したか否か、または配布した数量を重くみるのではありません。いくつかの質問を自分に投げかけてみれば良いのです。たとえば、むやみに配布した場合、配った数は少なくないかもしれませんが、ほとんどの人が読んでおらず、ひいては大多数の人が見ておらず、内容を知らないまま捨ててしまったかもしれません。それでは、これは人を救っているのか、それとも業を造っているのでしょうか? もし配らなければ、本土の世人は大法真相を正しく認識する機会を一つ失ったことになるのではないでしょうか? 面と向かって話し、面と向かって手渡すのは時間がかかりすぎて満足感が得られないと感じるなら、その気持ちは本当に理性的で、人のためなのでしょうか?

 私たちは皆、「修は己にありて、功は師にあり」(『轉法輪』)を知っています。修煉とは何か、どう修煉していくべきかを学び理解することは、長期にわたって直面せざるを得ない課題です。なぜなら、修めてよくできた一面が隔離され、残された人間の一面はまだ人間のままなので、まだどう修めるべきか分からないのです。そのため、私たちは絶えず学法し、法に同化していく必要があります。経文の配布問題において、本土の同修は師父の按排に従う必要があるだけでなく、心性と悟性(推測したり、軽率に結論を下すのではなく)を高める過程で、法から知恵と啓示を得て、心を静めて法に答えを求め、はじめて少しずつ悟りを得ることができるのです。

 かなりの数の同修は学法を堅持することができ、ひいては大量に法を学んでいますが、心性を高めることにおいて力を注いでいません。しかし、大法修煉は心を修めることを重んじ、人心を真っ直ぐに指します。絶えず大法に照らし合わせて自らの心性を高め、特にトラブルや不安、魔難の中で、落ち着いて大法に照らして自分の心性の不足と観念による妨害を探し出して、はじめて心性が高まるのです。どのように修めるべきかを知り、心性が絶えず向上すれば、事あるごとに戸惑ったり、途方に暮れたり、法を学ばずに人を手本にしてしまうことがなくなり、自惚れたり、自分の心より魔が生じて反対に走ってしまうこともなくなります。

 海外の佛学会は責任を持って、学習者がよく修めることができるように引率しなければなりません。中共による迫害が続く中、中国本土には師父が指定された佛学会や総協調人がいないにもかかわらず、本土の同修たちは自発的にグループ学法やプロジェクトチームを組織し、集団修煉の環境を作り出し、法を学び心を修めることを重視する良好な環境を築き上げました。人を救うことがどの程度までできるかは、大部分において私たちの修煉状態の表れなのです。

明慧編集部
二〇二三年七月三日

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/7/4/462614.html)
 
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