五つの伝統的な美徳
■ 印刷版
 

 【明慧日本2023年8月15日】徳、義、礼、仁、信は五つの伝統的な美徳です。以下では、これらの伝統に関連する模範的な歴史の物語を見ていきましょう。

 德:班昭が『女誡』を著しました

 徳は徳行や恩徳の意味があります。『説文解字』によれば、徳は徳行であり、また恵みであり、昇進や福徳を指します。『正韻』によれば、徳と言う者は、善美であり、正義であり、光り輝き、純粋で高潔と称されるものです。

 東漢の才女班昭は、儒学の家庭に生まれ、父の班彪や兄の班固と共に著名な歴史学者でした。彼女は家庭内では兄を心から大切にする妹でした。班超は西域に派遣され、長く辺境で暮らしていましたが、70歳になった時に帰朝を願い出ました。班昭は皇帝に上書し、兄のために嘆願する言葉は心を打つものでした。それによって班固は帰国を順調に果たすことができました。班固は『漢書』を著しましたが、未完のまま世を去りました。班昭は兄の志を継ぎ、表と天文志の一部を完成させました。

 班昭は才能があり、徳行が優れており、しばしば皇帝に宮中へ召し出され、後宮の妃嬪たちに才学や徳行などを教える役割を果たし、『大家』と尊称されました。晩年になって班昭は女性の徳行を向上させるために『女誡』という七章からなる書物を著しました。彼女は女性が謙虚で柔順であることを美徳とし、婚家では各種の関係をうまく処理するべきだと考え、徳行、言葉遣い、容姿、技芸など、女性の四徳に具体的な要求を提起しました。この書物は古代の女性の徳行教育の教科書となり、中国の伝統的な女性の品徳の形成に深い影響を与えました。

 義:貂蝉の知恵と計略による国賊の除去

 義は古代の典礼における礼器を指し、後に道徳的な、倫理的な、正義にかなった原則を意味するように広まりました。『容斎随筆』には次のように述べられています:「仗正道曰義、至行過人曰義」、日本語に翻訳すると、正しい道に基づくことを義と言い、人を超えた行いを義と言います。

 東漢末年、四大美女に名を連ねる貂蝉が、次々と、感動的な策略を演じました。

 その頃、軍閥の董卓が都に侵攻し、謀反を起していました。彼は廃立を行い、皇帝を弑し、洛陽を焼き、長安に遷都し、さらには帝位を狙う野心を抱いていました。朝廷では忠義を持って正論を述べる者たちが迫害を受け、朝廷の外では義勇軍がそれぞれの政権を形成し、足踏みしていました。漢朝の存亡の危機に際し、司徒の王允は董卓を除く策略を用い、国家を救う大業を貂蝉に託しました。

 貂蝉は国色天香(美女のこと)であり、歌舞に優れていますが、同時に大義を深く理解し、強い意志も持っています。漢室を救うために、彼女は屈辱に耐えて、立ち上がりました。王允の巧妙な計らいの下、貂蝉は美貌と勇敢さ、知恵を駆使し、董卓とその義理の息子である呂布を引き離し、呂布を利用して董卓を討ち、董卓の専横な時代を終わらせました。朝廷の文武官僚や天下の英雄たちは手も足も出せず、国賊は一人の女性の優雅な歌舞の中で消え去りました。以後、貂蝉は正義と知恵の化身として、後世に名を遺すこととなりました。

 礼:「孟光挙案齋眉」、孟光は膳を目の高さまでささげます(夫を尊敬する意味で)

 礼は本来、神々への祭りや神への敬意を表す意味でした。後に、祭りの活動から派生して古代の階級制度や行動の規範、倫理的な基準となりました。『釈名』によれば、礼とは形式や体裁を指し、その実践を体得することも意味します。

 古代の人々はしばしば「挙案齋眉」を用いて、夫婦が互いに尊敬し、礼をもって接する関係を形容しました。

 東漢の名士である梁鴻と彼の妻である孟光は、歴史上有名な隠者夫婦であり、彼らは高潔な道徳性を持ち、日常生活で礼節を重んじていました。『後漢書』によれば、彼らは豊かな家に寄寓し、夫は耕作し、妻は機織りをするという質素な生活を送っていました。二人はそして、食事の時に、孟光(妻)が夫に食事を運ぶ際、常にご飯を持ち上げて、眉と平行に高く保ち、夫への尊敬を示していました。そして、梁鴻(夫)は謙虚に両手でご飯を受け取り、それから二人で食事を始めたのです。

 梁鴻は博学であり、知識に富んでおり、誠実で素直な性格で、故郷で有名人でした。一方、孟光は容姿は醜かったのですが心は良い人で、簡素な生活で一生を送りました。彼らは真の志を共有する人生のパートナーであり、互いに敬意を持ち、調和を重んじる夫婦関係を築き、すぐに佳話として広まりました。『礼記』には「敬讓之道也」とあります。敬意が礼を生み、礼が調和を生むとされています。古代の先達たちは礼を知り、守り、調和を尊ぶことを重んじました。礼は人々が相互に交流する上で重要な方法です。

 仁:長孫皇后の仁愛は限りなく広がります

 「仁」には仁愛と互いに親しい意味があります。『説文解字』によれば、「仁」とは親しみのあることを意味します。人から派生し、二を合わせた形です。『礼記・礼運』によれば、「仁者は義の根本であり、従えば立派になり、それを得る者は尊ばれます」とされています。

 大唐聖主である唐太宗の側にいた長孫皇后は、仁徳に満ちた賢明な女性でした。彼女は名家に生まれ、学識があり、正直で善良な人柄でした。幼少期には「坤(地)は万物を支え、徳は無限であり、履(徳を行うこと)は中庸であり、高貴で言い表せない」という預言をしていました。彼女は13歳の時、当時の秦王である李世民と結婚し、両親や夫に仕え、賢夫人として夫を支えました。

 秦王李世民が各地を転戦している期間、長孫氏は秦王に従って行動し、秦王の生活を世話し、彼が安心して戦闘に専念できるようにしました。秦王は即位し皇帝となりましたが、長孫皇后は依然として、普通の嫁のように太上皇を孝敬し、質素倹約の生活を送りました。彼女は後宮の妃嬪に対して寛大で大らかであり、後宮の和睦を維持し、唐太宗が国家の大事に専念できるようにしました。もし唐太宗が彼女に政務について相談すると、彼女は後宮が政治に干渉しない伝統的な礼法を守りつつ、『平穏な時にあっても災難を予想して備える』『賢者に任じて、率直に忠告を聞き入れ』などの原則を婉言で進言しました。長孫皇后は自らの言動と品行で唐太宗の尊敬を勝ち得り、賢妻賢后の模範を築きました。

 信:王宝钏は寒い窯を守ります

 信の本義は言葉の真実さを意味し、派生的には誠実さ、欺かないこと、信用となります。『說文解字』には「誠実である。人から言葉から成る」とあります。『左伝』には「命令を守り共に時を共有することを信とする」とあります。

 唐の時代の宰相の娘、王宝釧は、刺繍の球を投げることを通じて貧しい少年薛平貴と縁を結びました。しかし、彼女の父親は貧しさを嫌い、富裕な人々を好みました。武術に長けているが貧しい家柄の薛平貴を軽蔑し、結婚の約束を破ろうとしました。王宝釧は天意を信じ、薛平貴の人柄を重んじ、結婚の約束を守ることを選びましたが、父親に家を追い出されてしまいました。

 二人は寒く冷たい洞窟で、質素でありながらも愛情に満ちた生活を送っていました。夫の理想と抱負を実現するため、王宝釧は薛平貴に、官吏の登用試験を受けさせるために一人寒窑に留まり、夫の帰りを待ちました。薛平貴は外で軍勢と共に戦い、名声ある戦功を立てましたが、戦乱のために18年間も帰郷することができませんでした。18年の間、王宝釧は極度の困窮な生活を送り、夫からの音信もなく、孤独で貧困に耐えました。しかし彼女は結婚の誓いを守り、夫婦は必ず再会すると信じていました。堅固な信念を持ち続けた王宝釧は、ついに薛平貴の帰還を待ち望むことができました。彼女は辛い時期を乗り越え、夫とともに余生を過ごすことができました。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/2/13/456726.html)