なぜ礼儀作法を学ぶのか?(2)
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文/劉一醇

 【明慧日本2023年8月28日】

 親孝行をする息子

 殷王朝末期、周の太王には長男・泰伯(太伯)(たいはく)次男・虞仲(ぐちゅう)末っ子・季歴(きれき)がいました。季歴には姫昌(きしょう)という、のちに周の文王となる男の子がいました。

 姫昌が生まれたとき、赤いスズメが赤い文字をくわえて玄関に止まりました。この吉兆を見た太王は、王位を季歴に譲り、その季歴から姫昌に譲ることを計画しました。古代では、王位は長男に譲るのが普通だったのです。

 父の計画を知った太伯は、弟の虞仲を連れ、父の決断を支持するために荊蛮(けいばん)の地へ逃げ込みました。また、中華から離れる決意の表れとして、髪を切り、刺青を入れました。こうして、太王は誰の干渉を受けることなく、王位を季歴に、そして後に姫昌に譲ったのです。

 太伯はやがて、彼が逃れた地域を句呉(こうご)と号して国を興し、荊蛮の人々は多くこれに従って、約1000の家々が彼を王として選んでいました。

 季歴に地位を譲ったことについて孔子が「太伯はそれ至徳と謂う可きなり」と評価しています。その人柄と謙虚さを賞賛しています。

 呉の王位は19代目の呉王・寿夢(じゅぼう)に譲られました。寿夢は、季札(きさつ)の評判が良いことから、四男の季札に王位を譲るつもりでした。季札は兄たちに遠慮してこれを三回も辞退しました。呉の民衆もまた、季札を王とすることを望んでいましたが、結局、季札は出て行って農民になりました。

 年上の兄の優しさ

 司馬遷の『家訓』によると、舜(しゅん)は敵対する相手にも常に親切に接したという話がありました。

 舜の父、継母、弟の象は舜をしばしば虐げました。尭王が舜を後継者に指名すると、彼らの嫉妬はますます激しくなり、舜を殺害して財産を奪おうと企みました。

 あるとき、彼らは舜に屋根の修繕を依頼しました。しかし、舜が屋根に上ると、彼らは梯子を外し、屋根に火をつけました。幸い舜は無事だったのです。

 また、井戸を掘るように言われたこともありました。舜が井戸の中にいると、家族が舜を埋め始めました。象は、井戸に土を入れた後、舜の家畜と穀物を両親に渡し、舜の残りの財産を自分のものにしようと考えました。そして、舜の妻を奪おうとしました。

 しかし、舜は奇跡的に井戸の横穴から脱出することができました。帰宅した象は、ショックを受けました。なんと、舜は真顔で「お兄さん、とても会いたかったですよ」と言ったのです。

 そして、舜は彼を許し、国の運営を手伝ってくれるように頼みました。

 君子は道理にかなった方法で欺かれることがあっても、道理に合わない方法で罔される(目をくらまされる)ことを非難します。

 舜は象が自分を殺すとわかっていたのに、なぜ舜は喜んだのか。 孟子曰く、悪人のやり口で紳士を欺くことはできても、道徳や義に反する欺瞞で紳士を欺くことはできない。 象は兄を愛するふりをしていたが、舜はそれ故に心から信じ、舜を喜んで受け入れていました。

 古来、すべての賢人は親孝行によって導かれてきましたが、親が愛情深い場合、息子が親孝行することは難しくないのです。 しかし、舜の両親はそれほど優しくはなかったですが、結局は両親を尊敬し、舜は偉大な親孝行者と呼ばれるようになったのです。

 謙虚な弟

 晋の時代に、兄弟の仲がよい物語がありました。王祥(おうしょう)と王覧(おうらん)です。王覧の母は王祥の継母です。

 覧が数歳のとき、母の朱が兄の祥を木の枝で鞭打つのをよく見て、母から兄の祥を守るように抱きしめていました。

 兄弟が成長するにつれ、覧は母の朱に兄の祥を叩かないように頼むことが多くなり、少しは改善されました。その後、兄弟は結婚しましたが、母はいつも兄とその妻に頼みごとをします。覧はできる限り兄夫婦の手伝いをしました。

 兄弟の父親が亡くなると、兄の祥はその徳と人柄の良さで有名になりました。母の朱は嫉妬に駆られ、毒入りの酒で祥を殺そうと企みます。

 覧はこの計画を知り、盃の酒に手を伸ばしました。兄の祥もまた異変に気づき、弟を死なせたくないと思いました。兄弟が毒入りの酒をめぐって争うのを見て、母の朱は覧がそれを飲むことを恐れ、酒を捨ててしまいました。

 その後、母の朱が祥に料理を出すと、必ず覧が先に味わうようになりました。こうして、継母は祥に危害を加えようとしなくなりました。

 呂虔(りょ けん)将軍は、持っていると三公(さんこう)(注1)の位に登れるという剣を持っていたが、彼は王祥に「持つべき人が持たないと、この剣は害を成すかもしれないです。しかし、貴方なら三公にもなれる器量をお持ちなので、貴方にこの剣を差し上げようと思います」と言い、固辞する王祥に強いて与えました。祥は死後、覧にその剣を遺し、彼とその子孫の幸運を祈りました。

 案の定、覧の子孫数十人は高官になりました。曾孫の王羲之(おうぎし)は中国史上最も有名な書家の1人となりました。

 注1:三公(さんこう)は、中国およびその影響を受けた東アジア諸国の前近代の官制において、最高位に位置する3つの官職をいう。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/8/21/429672.html)
 
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