【513】純粋な心で物事に対処する(一)
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 【明慧日本2023年8月29日】私は、2018年の春に法輪大法を学び始めたアメリカ人です。この千載一遇の貴重な機会にとても感謝しています。

  世の中の状況は急速に変化しており、ますます多くの人々が法輪大法について知りたがっています。1992年5月13日、李洪志師父が法輪大法を世に公開されてから30周年記念に際し、私の修煉体験談を紹介し、法輪大法を理解するための一助になれば幸いです。

  宝物を見つける

 『轉法輪』という書籍を初めて読んだ時、私は「これは一生追随していくものだ」と思いました。

  長い大学生活の中で、さまざまな宗教や哲学を授業で学び、実際に調査したこともありましたが、心に響くもの、あるいは辻褄を合わせることのできるものはありませんでした。最も共感できたのは仏教でしたが、それでも私の疑問にすべて答えることはできませんでした。 しかし『轉法輪』を読んだ後、そのシンプルな表紙の奥には、私が探し求めていた答えが詰まった宝の中の宝であることがわかりました。

  もちろん私の理解は、最初のうちはとても浅はかなもので、自分の執着を見つけることができませんでした。「よかった、この執着には心配しなくてもいい。嫉妬することがないから」とか「私はすでにこの問題を解決した、今まで争ったりすることはなかったから」と考えていました。

  今思い返せば、昔の自分にほくそ笑むでしょう。当時の私は「真、善、忍」に従うことはあまり難しいことではない、私はすでにそうしていたのだ」と考えていました。師父が修煉は簡単ではないと何度もおっしゃった理由がわかりませんでした。しかし、本の中の概念を理解することと、それを実践することは別のことだということを、私は知らなかったのです。

  内に向けて探す

 法を得た当初、私は発表された師父のすべての著作を読みました。これは法を理解するのに大変役に立ちました。

  それでも、最初は自分の執着を見つけるのが大変でした。自分に執着があることは分かっていましたが、それをどう認識すればいいのか分かりませんでした。他の修煉者が自分の執着について話すのを聞いて、彼らがいとも簡単に話していることに驚きました。私は「もし私がこのような悪い執着を持っていたら、人前で認めることはできないだろう」と思いました。

  自分の執着は見えないのですが、他人の執着ははっきりと見えていました。時々、他の人の執着や観念がこんなにも明らかなのに、なぜ自分の執着は見えないのだろうと不思議に思うことさえありました。

  ある日、はっと悟りました!  私が他人から見えていた執着は、実は私自身にある執着を映し出してくれていたのだとわかりました。こう閃いた瞬間、私は内に向けて探すことを学びました。

  もう一つの妨げは、自分自身に執着があることを認めたくなかったことです。特にそれが非常に悪いこと、あるいは気まずいことである場合、それを認めてしまうと「私はこういうタイプの人間だ」という自分に対する今までの認識や観念を放下し、他人から見て良い部分を捨てて、自分の良くない部分を直視することになります。

  私は本当にそれを見たくなかったし、普段は見て見ぬふりをしていました。自分が名利にこれほど強い執着を持っていたことに気づくのに数カ月かかりました。それに気づいてからは、さらに深堀して内に向けて探すことができるようになりました。他の人に謝ったり、修煉体験を話すときに、自分の欠点を認めることができるようになりました。

  私は法輪大法を修煉して、より良い人間になりたいという願望は、これらの悪いものを持ち続けたいという願望よりも強いのです。そして、私はそれらを手放したいと思うだけでなく、心身がリラックスし、身の回りの環境が改善されたことを体験した後、それらを掴んで離さないことはいかに愚かであったかがわかりました。

  執着に気づく

  非常に興味深いことに、私が最初に見つけた執着は、自分にはないと確信していたもの、つまり闘争心でした。何年もの間、医学部のみんなは競争心が強いが、私はそんなことはなかったと友人と話していました。私はこの「事実」を誇りにさえ思っています。実際、この執着は根深く、他の執着や自分に対する盲目な自信に埋もれていて、全く意識することができませんでした。

  この執着を見つけた日、どれほど驚いたか覚えています。この執着が他の形で現れていないかどうか、自分の思考や行動に注意を払わなければならないと認識しました。やはり現れていたのです。一日に何度も、たとえ些細なことであっても、他人より抜きん出ようとする考えが自分の中に生じていました。他人より優れていたいと思い、他人の欠点を見下すことさえありました。さらに深く掘り下げていくと、自分にはないと思っていたもう一つの執着心、つまり嫉妬心があることを知りました。師父がおっしゃったように、闘争心を無くさなければ嫉妬心につながりやすいのです。

  私が一生懸命これらの執着を一つずつ取り除いていくうちに、これらの執着は繰り返し暴露され、私に見せつけていました。また、その他にも、顕示心、怠惰、安逸心、物質的な享受、苦を舐めたくない、恨み、情(特に息子に対して)、弁解などの多くの執着を見つけることができました。

  私のもう一つの大きな執着は、いつも誇りに思っていたこと、つまり実用主義でした。

  師父は「利口なので、損をするようなことはしませんし、不利益を蒙ることもめったにありません。そこで他の人が不利益を蒙る羽目になります。現実の利益を重く見れば見るほど、彼の心はますます狭くなり、常人の物質的利益を何よりも大事だと思えば思うほど、彼は自分こそ現実を重視する人間だと思い、ますます損をしない人間になります」  [1]と説かれました。

  私は今、実用主義とは、損失を被ることを避けたり、やむを得ず苦難に耐える方法であることに気が付きました。それは、オープンで無私な形から物事を認識することができず、個人の利益や些細なことにとらわれ、安楽にしがみつき、すべてがうまくいくことを願うことの表れです。

  また、楽で快適な生活を送りたいという思いは、自分の観念や執着の現れであるにもかかわらず、自分の考えとしてしまうことがよくあります。無害に見えることも多く、気づかれなかったり無視されたりすることもあります。これらの執着は最も危険で、実際、このような理由から、徐々に修煉者を台無しにしてしまうのです。

 (続く)

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/5/19/442283.html)
 
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