怨恨について考える
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文/中国大法弟子

 【明慧日本2023年9月18日】ある時、グループ学法の後、同修らは簡単な交流をしました。ある同修は「なぜ同修の間でこれほど恨みがあるのでしょうか? 互いの至らなさを悪しざまに言い合ったり、同修の間に言いふらしたりすることは、本当に大法弟子の名に相応しくありません」と言いました。

 彼女の話は同修の間で議論を引き起こしました。ある同修は「事の大小にかかわらず、グループ全体が協力して法を実証するにしても、個人で迫害に反対する活動にしても、不満の声が出ています。表面的には同修の修行の現れですが、本質的には修煉者が真に修煉することです」と言いました。

 たとえば、現在の修煉環境は地元での 「恣意的な告発」によって引き起こされていると考える同修がいます。または「大法弟子が真実を明らかにし、人々を救うことは法を犯しているのではなく、警察、検察、司法機関が大法弟子を逮捕することが法を犯しているので、私たちは告訴し、公民権を行使すべきです。この過程は、関わるすべての真の修煉者にとって、非常に貴重な修煉の機会です。私たちは何かを見たり聞いたり、言ったりして、法に反すると思う言動をなぜ忘れてしまうのでしょうか? なぜ自分に聞かれ、見られたりするのでしょうか? 同修はいわゆる鏡のような存在であり、その言動はまさに自分が修めるべき一面を反映しています。私たちはそれを修めようと、向上しようとしているのではないのでしょうか?  これらは、まさに自分が修め、取り除こうとしているのに、なぜ恨むのでしょうか?」と考える同修もいました。

 そのような同修がおり、地元同修の多くは彼に意見を持っています。しかし、彼は20年以上にわたり法輪大法を修煉していました。1999年以降、酷い迫害を受けましたが、大法を離れることはありませんでした。ただ、中共の党文化に強く染められ、表裏があり、怨恨心がとても強いのです。同修らはたくさん意見を示し、多く話しましたが、しかし、話した同修は法に合っているのでしょうか? それぞれが「懐中電灯」のように、自分自身でなく他人だけを照らしました。なぜ私たちの周りにはそのような人がいるのでしょうか? その人の表現は同修の実際の修煉状態を反映しているのではありませんか?

 私たちは不満を言ったり、愚痴を言ったり、恨んだりしてはなりません。なぜでしょうか?  何か不満を感じたときは、自分を冷静に見つめて、「このことに本気で取り組んでいるか?」と自問してみてください。何か愚痴を言うときは、「自分の義務は果たしたか?」、何かに対して憤りを感じたときは「あなたは真の弟子なのか」と、自分に問いかけてください。

 
翻訳原文(中国語):https://www.minghui.org/mh/articles/2023/9/7/464997.html
 
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