「痛恨」を言う
文/中国の大法弟子
【明慧日本2023年10月11日】ある同修の足は、ここしばらく痛んでいて、一向に良くなりません。「怨恨心から引き起こされたはずだ」とこの同修は言いましたが、次に「でも、私には恨みに十分な理由があり、正当な理があります」と言いました。同修の口調には正当化した感じがありました。その時、ふと「痛恨」という言葉を思い出して、調べてみると、「痛」の『語源』の3番目の解釈は「恨」で、「痛」と「恨」は実に同じものです。
私たちは一念発起したとき、外面的だけでなく内面的にも、そして、他人を憎んだとき、実は痛みを自分の中に閉じ込めているのだと理解しています。
「痛み」にはまた2つの解釈があります。悲しみ、哀れみ。悲しみといえば、昔小説を読んでいて、悲しいところを読んで、心臓のあたりから左上腹にかけてズキズキとして痛みました。その悲しみによる痛みの物質は確かなものです。
私はまた「疼愛」という言葉を思い出して、人は可哀がられたり、円満な愛情があったりして幸せだと思っていますが、旧宇宙では相生相克の理は絶対的で、成住壊滅に従って、すべてが腐敗しています。一途な思いは往々にして裏切られて、心に寄り添った愛が逆の結果を招くこともあります。愛と痛みは密接な関係です。
恨みは痛み、哀れみは痛み、悲しみも痛みます。つまり、情から痛みが生まれ、情から飛び出してこそ痛みから遠ざかることができます。ここまで書くと、急に泣きたくなり、「痛恨」という私たちの多くの人は普段口にしている言葉には、私たちに無視されている意味が含まれています。創世主に愛されることは本当の幸せであり、私たちは福の中で福を知らないわけにはいかないでしょう。