【明慧日本2023年10月15日】修煉を始めた頃、私は同修と交流をしている時、同修が話したエピソードが私の心を動かしました。ある時、師父は一人の弟子に箱を持って来るように言われました。その弟子は箱が非常に大きく見えて、困っていました。師父はその弟子を見て「持ってみなさい、軽いですよ」と言いました。その弟子は箱を持ち上げてみると、本当に軽かったのです。私はこのエピソードから、師父がおっしゃられたすべての言葉は法であることを悟りました。師父が「軽い」とおっしゃれば、本当に軽くなるのです。
ある時、遠方の同修を車で家まで送ることになりました。その地元の同修が私に話してくれました。「二人の同修が邪悪な共産党に強制連行され、刑務所に向かう途中、警官が食事に行きました。一人の同修が『私は行きます』と言い、もう一人の同修も『私も行きます』と言いました。そして二人は手錠を揺らすと、手錠はすぐに外れ、二人はその場を去りました」このエピソードから、私は師父の法を思い出しました。「鎖で縛りつけますが、家族の人がいなくなった途端、彼女がちょっと身体を揺すると、鎖もはずれてしまいました」(『轉法輪』)
十数年前、私は一度邪悪な共産党によって拘束され、留置場に連行されました。私はここは自分がいるべき場所ではないと思い、法を実証するために出なければならないと思いました。そこで、師父に祈りを捧げ、加護を願いました。ある日、留置場の水道が壊れ、水道修理のために留置場の扉は開いたままでした。私は師父から与えられた機会が訪れたと思い、私は心の中で師父にご加護を願い、そして正々堂々と留置場のいくつかの扉を通って外に出ました。留置場を出ると、偶然にも同修に出会い、まるで私を迎えに来てくれたかのように、私を安全な場所に案内してくれました。本当に、「修は己にありて、功は師にあり」(『轉法輪』)なのです。
ある時、太陽光発電装置を修理している最中、手にガラスが刺さって深い傷を負い、出血が激しかったのです。師父はおっしゃいました。「俺の頭は切り落とされても元通りに戻せるのだ。どうして俺に神を封じさせないのか?」(『轉法輪』)私は、頭が切り落とされても元通りに戻せるのだから、この小さな傷はどうってことないと、傷口が早く癒合するように考えました。するとその傷はすぐに癒えました。
数年前、妻・同修と一緒に真相資料の配布に行った際、配布が終わり、帰路についたとき、多くの監視カメラがあることに気づきました。しかし、私は恐れず、師父の説法を思い出しました。「それの反転速度は二十四コマより速く、捕らえたものを鏡に映して反転して見せてくれると、すぐ裏返って消します」(『轉法輪』)私は正念を発して、「私たちの映像が邪悪な人に見えないようにしてください」と師父にお願いしました。それで私たちは無事でした。
一年前(2022年)の夏のある日に、地元の同修が警官に連行され、同修たちを救出するために私たちは留置所の外で正念を発していました。私は留置所の外の小さな森に入り、正念を発していましたが、その場所は湿度が高く、小さな虫、ハエ、蚊が多く、鳥のさえずりも絶え間なく響いており、正念を集中させるのが難しかったのです。しかし、私が正念を発すると、鳥の騒音は収まりました。しかし虫に刺され入静できませんでした。
このとき突然、師父の法が私の脳に浮かびました。「皆さんも、小説に出てくる金鐘罩、鉄布衫、百歩穿楊などのような功夫をお聞きになったことがあるだろうと思います。それから軽功を持つ人は、空を飛んだりすることができるとか、また、別の空間を自由に行き来することさえできる人もいるとか書かれていますが、そのような功夫はあるのでしょうか? あります」(『轉法輪』)私はすぐ悟りました、師父が私たちに授けてくださったこれらの神通は、身を守るためであり、その中に金鐘罩、鉄布衫が含まれていると思いました。すると、私はすぐ入静の状態に入り、強大な正念を発して邪悪を取り除き、同修の救出をしていました。
実は、修煉の道において、魔難に遭遇したとき、私たちが師父から授かった神通と知恵を活用できるかどうかは、師父と法に対し私が信じているかどうかを試されているのです。明慧ネットに記載された同修の文章『金佛』で語られているエピソードのように、「佛を拝むために西方に向かう2人が途中で出会った屠畜場に務める屠殺者に、あなたも一緒に西方に行って佛を拝みましょう、と言いました。その屠殺者は言いました。『私の体はあまりにも汚れているので、私の心を持って行ってください』と言って、自分の心を2人に渡しました。2人が佛に会ったとき、佛は2人に油鍋に飛び込むように指示しました。2人はためらいましたが、まず屠殺者の心を油鍋に投げ入れ、その心は金佛になって2人はそれを見て飛び込みましたが、結果として揚げパン2本が浮かび上がりました」
私たちは修煉の中で、師と法を信じることにおいて気を緩めないことが、師父の真の弟子であり、最終的には師父について家に帰ることができるのです。