怨恨を放下し、魔難から遠ざかる
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2024年1月18日】最近、私は邪悪に妨害され、自分のどこが間違っているのかを見つけることができず、自分の心は純粋であり、対面で人々に迫害の真実を伝える際にも大きな進歩がありました。慈悲心が芽生え、効果も良好で、自分の心性が急速に向上しているし、過去に異なる意見を持っていた同修たちにも心を放下することができ、同修を思い出すと温かい気持ちになれました。内に向けて探しても、どこが間違っているのか分からなかったのです。

 そこで、私は心から一念を送り、師父に悟ることを与えてくださいとお願いました。夜になって夢を見ました。夢の中で、以前、協調人だった2人のうちの一人の男性同修が私に「恨みのある人は、あの部屋に行け」と言いました。私は「誰も恨んでいないし、行かない」と答えました。その後、この男性同修はその部屋に行ってしまいました。目が覚めて気づいたのは、師父が私に憎しみがあることを悟らせてくださったのです。深く探してみると、確かに恨みがありましたが、それほど重くなく、警察による数回の嫌がらせに対するわずかな恨みがあったと感じ、大した問題ではないと思いました。

 ところが数日後、私は夢の中の男性同修が、去年の10月に亡くなったことを知りました。これにより私は警告を受け、真剣に向き合う必要があると気づきました。娘と交流し、彼女は修煉文章を書いて同修たちと交流し、自分と同修たちに注意喚起をするように提案し、タイトルも考えてくれて、私は約束しました。おそらくこれは師父のお導きなのでしょう。

 亡くなったこの男性の同修は4年間の冤罪を経験し、帰宅後に邪悪に経済的迫害を受け、彼が警察に対して、怨みを抱いていたかどうかはわかりません。なぜなら、8年以上会っていなかったからです。しかし、私の知る限り、一部の年配の同修が病業に苦しんで亡くなった原因のほとんどは、恨む心から引き起こされたものです。長い間、他人を恨んでいたために体調を崩し、長い年月を経てもそれを乗り越えられず、生死の境をさまようのです。他の例をいくつか挙げてみましょう。同修たちが戒めとして共有してくれることを願っています。

 ある女性同修Aは約60歳で亡くなりました。修煉を始める前は、重度の心臓病を患っており、バイパス手術を受けました。修煉後も体調は良好で、学法煉功、衆生を救うための活動も積極的に行っていました。しかし、息子と嫁との間で小さな問題が発生し、自分の心性を守れず、嫁の服を外に投げ捨てたのです。息子は一家の60万元(約1,226万6千円)相当の樹木を売りたいと言いましたが、同修Aと意見が合わず、不仲になり、しばらくすると心臓発作を起こし、治療を受ける間もなく、亡くなりました。

 女性同修Bは60歳で亡くなりました。 彼女は同修である夫との家庭問題が長期間続いており、些細なことから争いが絶えませんでした。この同修Bは、長い間怨む心を取り除かず、夫の気性が変わらず、夫と最後の夫婦喧嘩となった時、同修Bは殴られました。真夜中まで泣き続け、疲れて眠った後、目が覚めると失意のどん底になり、学法と煉功もできず、状態が次第に悪化し、半年後に亡くなりました。

 女性同修Cは69歳で亡くなりました。同修C夫婦は共に修煉していましたが、彼女は夫の言動に我慢できず、心の中でうまくやり過ごせずにいました。そしてまた、義理の息子が自分の娘に対して優しくないことを恨んでいて、結果として肺と心臓に問題が発生し、入院した後、薬物治療に頼り、約1年後に亡くなりました。

 また、ある同修の母親が亡くなりました。この同修によれば、彼女の母親は嫁との間でうまく行かず、恨みが生まれ、身体に「胃がん」の症状が現れて亡くなりました。

 修煉は自分の一思一念を修めなければならず、法を正す最後の時期、大法弟子に対する要求も高まります。私たちは正法の進展に追いつかなければなりません。いつも小学校の教科書で卒業する大学生を指導するわけにはいかないのですが、私たちは自分自身に高い基準で要求しなければならず、私たちの体の細胞の一つ一つに「真・善・忍」を同化させ、将来の新しい宇宙の基準に適応するためには、自分自身が高い基準で達成しなければなりません。   

 一見、小さな恨みでもダメです。積み重ねて、時間が経てば問題が生じる可能性があります。法に基づいた修煉を怠ることが長期間続けば、難関が多くなり、死の難関が形成され、最終的には乗り越えられなくなります。したがって、多くの年配同修が病業の難関に苦しんでいること、亡くなったのは当然の結果です。常に自分を法に置き、あらゆる執着と観念、特に恨みの心は修煉者にとって大きな障碍なのです。人心の執着は、大小に関係なく取り除かなければなりません。修煉は厳粛なものであり、特に最近、師父が新しい経文を三篇連続で発表された後、私たちは修煉の厳粛さをますます分かるようになり、高い次元の基準で自分に要求しなければなりません。

 師父は「悪者は嫉妬心によって、私のため、怒りのために、自分が不公平だと言います。善人は慈悲心が常にあり、憎むことなく、恨むことなく、苦をもって楽とするのです。覚者は執着心がまったくなく、幻のために迷っている世人を静かに観ています」と説かれました。(『精進要旨』「境界」)

 私たちは常に師父の法で自分を量り、覚者の基準で自分に要求する必要があります。これにより、大法と同化し続け、向上し続け、私たちは新しい宇宙に戻ることができます。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2024/1/5/470280.html)
 
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