文/アメリカの大法弟子
【明慧日本2025年3月28日】私は夢の中で天門を三回通過する経験をしました。
1回目:十数年前、走って簡単に天門を通過しました。後ろでゆっくり歩いている他の同修たちを見て、私は焦って「同修、早くして下さい」と心配そうに声かけました。
2回目:6、7年前、天界の近くまで来て、神聖な天国が佛光に包まれているのを見ました。そこで、私は足を上げて入ろうとした時、突然人間の何かが頭に浮かびました。心の中で後悔し、「どうして人間のことを考えているのだろう、ダメだ、きれいに修煉してから戻らなければ」と感じ、私は振り返って飛び降りました。
3回目:数カ月前、みんなが順番に天門を通過していました。前の同修たちは通過しましたが、私の順番が来た時、止められました。「あなたのバーコードは古いです」と言われ、私は「新しいパスポートです」と言いましたが、返答は「新しいパスポートを再度スキャンしないと、新しいバーコードが生成できません、それがなければ通過できません」というものでした。
目が覚めた後、私は問題の深刻さに気付きました。「再度スキャン」というのは、私の基準が足りていないことを指摘しており、自分の修煉の過程を最初から最後まで見直さなければならないということです。以下は、自分をチェックして悟ったことです。
一、修煉の締め切り日について
私たちの生活の中で、さまざまなことに締め切り日があります。例えば、所得税の納付期限は4月15日ですし、大学への出願にも締め切りがあります。これらの締め切りは決して忘れてはいけません。なぜなら、遅れると罰金を取られたり、大学に入れなかったりするからです。そのため、私たちは真剣に念入りに期限を守ります。例えば、毎年の所得税を2月または3月初めにはすでに納めておいて、4月になって他のことに忙しくなると困るからです。軽視することはありません。
私たちの生活は、毎月の請求書を含めてあらゆる締め切りに追われています。しかし、修煉には締め切りがあるのでしょうか?
師父は具体的な日付を言われていませんが、「最後の最後」と何度もおっしゃいました(『各地での説法九』「二〇〇九年ワシントンDC国際法会での説法」)。この言葉を聴く度、私は目が覚めるような気がしますが、忙しさに追われるとすぐに忘れてしまい、元の状態に戻ってしまいます。
師父はまたこのように説かれています。「歴史の終わる日は、どんなことがあっても先延ばしされることはなく、具体的なことや、または過程に変化が現れることだけで、しっかり行わなかったことは後のことに影響しますが、全体のその時間が先延ばしされることはありません。これは師父が慈悲かどうかとは関係ないことです。実は、最後に救い済度される生命、組み立て直されたすべては私が手に入れたいものではなく、または基準に達していなければ、やり終えても無駄であり、消滅させなければなりません。あの時間を超えてはならず、救い済度されなかった生命にとって、仕方のないことです」(『各地での説法十一』「二十年説法」)
具体的な期日がないため、企業の製品リリースのように、すべての工程が明確に定義され、期日通りに製品をリリースするために達成しなければならないものではありません。
具体的な期日がないため、私たちはそれぞれ自分の認識に基づいて、修煉のペースを調整しています。私たちは皆、修煉者であることを自覚し、毎日三つのことを行っています。しかし、生活は苦しいことが多いため、お金があってもなくても無意識に自分に甘くしてしまうことがあります。自分に少しだけ楽をさせたり、言い訳をして自分を慰めたりすることがあります。
「温水でカエルを煮る」状況を想像してみてください。最初は心地よく、徐々に楽しむようになりますが、温度が徐々に上がっても気づかず、その心地よさに慣れていきます。次第にその心地よさに慣れてきて、抜け出せなくなります。最後にカエルは煮え上がり、完全にダメになってしまいます。
「法を正す時期がいつ終わるのかはわからないが、私たちはただこのまま修煉を続けるべきだ」と多くの同修はこのように思っています。かなり何年も前、ある同修は「法を正す時期はいつ終わるのだろう? これから20年もないでしょう?」と私に尋ねました。私は「わからないです」と答えました。その同修は自分の財産を計算して、20年分は使えると考え、仕事が大変なので辞職して修煉に専念することにしました。数年後、彼女は私に「どうやら法を正す時期はあと2、3年では終わらないようです」と話し、そして再びお金を稼ぐことを考え始めたのです。
私の理解では、法を正す時期はもしかしたら明日終わるかもしれないし、あと30年続くかもしれません。師父は具体的なことは教えておられません。小道の修行では、弟子がうまくいかなければ師父が棒で叩くこともありますが、私たちの修煉は大法の修煉であり、ましてや常人社会で修煉しているので、すべては自分自身に頼っているのです。
私の理解では、大法弟子たちはずっと基準を満たしていないので、師父は絶えず調整を行われているのです。例えば、「大部分の大法弟子は師父とともに法がこの世を正すことを行います」と『目覚めよ』に書かれているのは、大部分の弟子がまだ修煉の基準に達していないため、さらに機会を与えているということです。
基準を満たし、怠けないようにするために、私は自分に目標を設定しています。年初に、一つか二つの大きな執着を見つけ、その年の修煉の重点として取り組みます。こうすることで、修煉が少しでも確実に進むように感じるのです。この方法は今でも自分には有効ですが、それが法の要求に合っているのでしょうか?
私は1997年に海外で修煉を始めました。法を得たばかりの頃、ある同修のパソコンのトップページに「毎日を地球の最後の日として過ごす」と書かれているのを見ました。その時、私は「もし地球が最後の日なら、私は何もしないだろう。どうせ意味がないから」と同修を笑いました。しかし、今はそう考えていません。なぜなら、残された一分一秒がとても大切だからです。
私は「もし法を正すことが明日終わるとしたら、自分の執着や雑念は残るのだろうか? それらの執着や人心は、最速で捨てられると思う」と考えたことがあります。
もし法を正すことが明日終わり、そして旧勢力が今日、師父を中傷し、私たちが長年かけて救ってきた衆生を壊滅しようとしているなら、私はどうすべきでしょうか? 私は最も強い正念で、すべての邪悪を滅し、旧勢力が成功しないようにします。
私は何を待っているのでしょうか?
二、修煉の基準
「実は、最後に救い済度される生命、組み立て直されたすべては私が手に入れたいものではなく、または基準に達していなければ、やり終えても無駄であり、消滅させなければなりません」(『各地での説法十一』「二十年説法」)
私の理解では、私たちは旧宇宙から来た生命であり、新しい宇宙に入るためには100%の純粋さを達成しなければなりません。なぜなら、新しい宇宙は100%純粋だからです。
学生時代、「目標を100点に設定すれば、90点を取れるかもしれない。もし目標を60〜70点に設定すれば、50点しか取れず、不合格となる」という言葉をよく聞きました。
もし私たちの基準を「新しい宇宙の正神」の基準に設定すれば、何か問題が起こるたびに、まず「もし新しい宇宙の正神なら、彼はどうするだろうか?」と自然に考えます。時々、私は自分にこう尋ねてみると、すぐにどうすればよいかが分かります。
しかし、もし私たちが基準を設定せず、まるでスイカの皮を踏んで滑るように、どこに行くか分からない状態であれば、あるいは「まあ、これで大丈夫だろう」と自分の考えで認識するなら、その問題において基準に達していないことが多いです。こうした基準に達していないことが積み重なると、最終的に半製品または規格外製品となり、天に戻れなくなったり、私たちの世界の衆生が多く失われたりすることになります。
1)正念についてですが、私たちはどのような正念を持っていれば基準に達したと言えるのでしょうか。私は自分自身、普段から常に強い正念を保っているわけではないことに気づきました。しかし、何かのプロジェクトを担当し、責任がある時、正念は強くなります。例えば、今回は神韻会場内の警備を担当し、劇場には中共による爆弾脅迫がありました。その時、私は正念が強く、たとえチームに私一人だけでも、この任務を成功させることができると感じました。
しかし、なぜ中共による爆弾脅迫が頻繁に発生し、それが根絶されないのでしょうか? 正念を発することは重要ですが、それはとても受動的ではないでしょうか? 受動性はどのようにして引き起こされたのでしょうか?
20年前、夢の中で私たちの小さなチームの皆は「旧金山」という名前の古い城に到着しました。地面も空中も至るところに卑しい鬼が漂っていて、私は心の中で怖がっていました。同行していた同修は非常に強い正念を持っていて、「怖がらないで、私たちはこの城を守らなければならない」と言いました。私たちは正念を発し始めました。卑しい鬼たちはすぐに集まり、私たちに向かって歩いてきました。私は目を閉じて、正念を守り続けました。最後に、卑しい鬼たちは飛ぶように逃げていきました。同修の正念は、当時まだ新しい学習者だった私にとって、大きな励ましとなりました。
神韻と師父を攻撃する事件が発生した後、同修は明慧ネットの交流文章で、「大法弟子として、このようなことが起こるのをどうして許すことができるのでしょうか」と書いてあります。同修はこのことを完全に自分の責任として捉えました。一方で、私はただ「このことは間違っている、正念を発するときに一念を加えなければ」と思っただけでした。それだけのことでした。
「しかし正真正銘の佛は宇宙の保護者であり、宇宙の全ての正の要素に責任を負うのです」(『導航』「米国西部法会での説法」)。私は自分の差を感じました。私たちはこの責任を持っており、またこの能力も持っています。私たちの正念はすべてを止めることができるのです。ただ、私たちはそれに気づいていないだけです。
もう一つの例を挙げますと、プロジェクトではやったことのないことがたくさんあり、時には頭を絞ってもなかなか解決できない問題が出てきます。ある日、徹夜で取り組んでも結果が出ませんでした。翌朝、パソコンを開きながら、「自分がこんなに苦労しているのは何のためなのか? 人を救うためにやっているのだ」と思った瞬間、前日の問題にすぐに答えが出ました。
また別の時、難しい問題に二週間取り組んでも解決できませんでした。そして心を整えて、正念を発してみたところ、その日のうちに結果が出ました。その時、「もし自分がすべての瞬間で、このような正念を持ち続けていれば、このプロジェクトは速やかに完成するだろう」と思いました。しかし、自分はそのように実行できませんでした。
2)善と慈悲についてですが、私たちはどのような慈悲を持てば基準を満たすことができるのでしょうか? 師父は「慈悲は常人社会では善意と愛の心として体現されています」(『目覚めなさい』)と説かれています。私自身、対面で真相を伝える機会が少なく、会社で同僚や友人、家族に適切なタイミングで話すことを除いて、自分がどれほど慈悲の心を持っているのか分かりません。世界中のさまざまな人々を見ても、貧しい人、富裕な人、賢い人、愚かな人、良い人、悪い人がいて、それらは私にはとても遠い存在のように感じます。毎日頭の中はプロジェクトのことでいっぱいです。
悪い人や良くない事に出会うと、私はただ「この人はこんな風になってしまった」と思うだけです。
だから、「自分が冷たくなっているのではないか」と少し心配しています。
ある日、私の生命の深いところからひとつの念が湧き上がり、身体が震えました。「人は本当に苦しい。誰かが私に借りがあるなら、自分はすべての返済を求めない。人が劫難を乗り越えるだけでも難しいのに」と思いました。その時、「これは慈悲かもしれない」と一瞬考えましたが、明慧ネットで交流している国内の同修たちが、出会うすべての人々を救おうとし、自分の危険な状況を考えることなく、ただ他人を救おうとしています。私はそれこそが本当の慈悲だと思い、自分との距離を感じました。
「心、空にすれば、善なる念起く」(『洪吟三』「聖境に入る」)。私たちの心が空になり、執着心がなくなったときこそ、真の慈悲が現れるのだと自分は理解しました。自分の修煉が足りないと感じました。
三、安逸心が人を基準から遠ざける
小さい頃から自分に高い基準を設定することはなく、何かを達成しなければならないという思いは持っていませんでした。ただ、自然に任せ、好きなようにしていました。何をするにしても、だいたいで良いと思い、1位を取らなければならないという気持ちはありませんでした。取ることができればそれで良いですが、取らなくても気にしませんでした。
1)大学時代、ある日試験が終わった後、あるクラスメートが「間違いがあった」と悔しくて仕方ありませんでした。私は「大丈夫だよ、たぶんそれは小さなミスだから、そんなに点数は引かれないと思う」と彼女を慰めました。結果として、私は87点を取ったのに対して、彼女は97点を取りました。
2)ずっと前、神韻の警備をしていたとき、いつも責任者の車と乗り合わせました。あるとき、ある同修が私に「一緒に車に乗らない?」と声かけました。私は「責任者の車にまだ席があるから、皆で一緒に行こう」と答えました。しかし、同修は「責任者はいつも一番早く出発して、一番遅く帰るから、一緒に行くのはとても疲れる」と言いました。私はその時、どちらを選んでも良い状況でした。警備の仕事は早く行って遅く帰ることで、より多く手伝うことができます。でも同修がそのように疲れたくないという気持ちもわかります。彼女と一緒に行くなら、少し多く寝られるという利点もありました。私は流れに任せて彼女と一緒に行きました。楽な方を選び、「苦しみを楽とする」ということを忘れてしまいました。この事から、私は自分の差を見つけることができました。
3)法を得たばかりの頃、学校の煉功場のある同修が「毎晩2時に起きて、2時間坐禅をしている。とても静かで、とても心地よい」と言いました。私はとても羨ましく思いましたが、20年以上経った今でも、一度もそれを実践できていません。私は自分の差を見つけました。
4)「人生はこんなに苦しいから、修煉を成就しなければならない、成就すればもう苦しまなくて済む」と思っている同修はいるかもしれません。私もかつて「天に戻ったら、最初にすることは思いっきり寝ること」と考えたことがありました。しかし、明慧の交流文章の中で、同修は「これも一種の安逸心です」と言いました。真の覚者は、他人のためであり、自分がどうしたら楽になるか、あるいは苦しまないかを考えることはありません。私は自分の差を見つけました。
どのプロジェクトも「人手が足りない」と言いますが、来る人の多くは専門外の同修です。実際、私はそれで十分足りると理解しています。師父は高い視点からすべてをはっきりと見ておられ、師父が全体のことを計画される際、それに必要な人手を配置されるはずです。弟子たちがその状態に達すれば、人手は足りると思います。
師父の『目覚めなさい』という経文が発表されてから9カ月が経ちました。私は「本当に目覚めたのか? それとも目覚めて少ししてまた忘れてしまったのか?」と自分に問いかけました。私たちは本当にぼんやりしてはいけないし、安逸に溺れてはいけないのだと感じています。
原因をまとめると、基準に達していないのは、法の広大さ、貴重さを真に理解していなかったからです。また、私たちが今いるのがどれほど重要な瞬間であり、そして私たちが持つべき、衆生に対する責任を十分に認識していなかったからです。
私たちは、正々堂々と、理知的に目覚めて天に戻るべきであり、転がりながら、ぼんやりと、大勢に流されて天に戻るべきではないと自分は思っています。