文/中国の大法弟子
【明慧日本2024年9月5日】初めて師父の新経文『険悪を遠ざけよう』を学んだ後、私は修煉者にとっての最大の危機とは、関や難を乗り越えられない時、大法や師父を怨んでしまうことだと悟りました。この種の怨みは最大の悪であり、もちろん危険なことでもあります。さらに学んでいくうち、私は修煉者自身の罪業が旧勢力に握られている弱みであることに気づきました。
借りは返さなければならないのが宇宙の理であるため、自分が生々世々に造った罪業が、修煉の道のりにおける危機となったのです。借りは返しておらず、あるいは返しきれていないため、旧勢力はそのしっぽを握り、病業や連行、不当な判決、ひいては肉身を直接奪ってしまう形での迫害することができるのです。では、どうすれば険悪を解消できるのでしょうか?
修煉者は苦を嘗めて罪業を消し、負債を返済しなければなりません。人間はこの世で苦労して罪業を清算して、初めて次の世で良い暮らしを得ることができます。大法の中で修煉する私たちは単に良い来世のため、業を消すために苦に耐えるのではなく、苦を嘗め業を消していく過程で心性の向上が得られ、功が伸び、次元が次第に上がっていった結果、正果を得て圓満成就できるのです。
そのため、自身の負債をきれいに返済して、初めて邪悪による迫害を根本から否定できるのです。負債がなければ、邪悪も迫害する口実がなくなるのです。学法を通して皆さんも分かったように、業カは人間のさまざまな執着心と一体関係にあります。ですので、私たちはこのさまざまな人心を取り除かなければなりません。個人の考えでは、私たちが生々世々に造った業力と形成された人心こそが、邪悪が大法弟子に対して悪事を働くことができる根源なのです。
師父は旧勢力の迫害を認められていません。では、なぜ旧勢力は大法弟子を迫害することができたのでしょうか? 一つは、旧勢力は「借りがあれば、返さなければならない」という理を掴んでおり、もう一つは、迫害される中で、私たちがよくできていないがゆえに魔難を増幅させてしまったからだと思います。
また、学法を通して、私は以下のように悟りました。師父は弟子たちが大法の中で修煉することができるよう、私たち個人の借りの大部分を肩代わりされた上、あらゆる方法で私たちの罪業を帳消しにしようとされているのです。私たち自身が返さなければならないのはほんの一部であり、心性さえ向上させれば、関を乗り越えることができます。問題はやはり私たち自身がよく修めておらず、さまざまな人心を抱いて放そうとしないため、もっと大きな魔難を招いてしまったからです。
苦を嘗めれば罪業を消すことができます。そのため、修煉者にとっては苦労するのが良い事であり、安逸はよくないはずです。安逸を求めれば業を消すことができないだけでなく、その快適さを追い求める中で罪業をさらに増やしてしまうことさえあります。しかし、修煉の中で、気づかないうちに世俗的な安逸に囚われてしまっているときが結構多いのです。安逸心をはっきり認識して取り除いて、初めて苦を嘗めて業を消し、負債を返すことができます。こう考えてみれば、安逸心を取り除くことが極めて重要です。睡眠や食べ物に対する貪欲、色欲、己の一存で物事を決められる、常人が思う一切の素晴らしいこと、快適さなど、安逸に対する執着は各方面に現れます。
師父は『精進要旨二』の「法を正す時期の大法弟子」の中で、次のようにおっしゃっています。「もし、皆さんがいまだに法を正す弟子とはどのようなものか、はっきり認識できないとすれば、今の魔難の中から抜け出せず、この世で安逸をむさぼる心に動かされ、邪な悟りに陥ってしまいます。それらの落ちてしまった人に対して、師父はずっと心を痛めています。多くはこの心に動かされて、だめになった人なのです」
以前は、安逸心が修煉者を滅ぼす、安逸心が邪に悟る事に関係しているなどの話をよく理解できませんでした。今、やっと分かりました。安逸を渇望すれば業力を消すことができません。しかし、まさにその業力は旧勢力が迫害を働く口実なのです。
大法弟子は、法に則って修めなければ、法の力を得られません。法の力がなければ、人間は旧勢力が作り出した魔難による迫害に耐えることができません。関や難を乗り越えることができないとき、怨みが勝って、甚だしきに至っては大法や師父を誹謗してしまいます。これは重大な犯罪ではありませんか?
苦に耐えることが修煉者の基本だと思います。苦を避けても、いずれは辛い思いをすることになります。なぜならば、借りがあれば必ず返さなければならないからです。旧勢力に弱みを握られて迫害を強いられるより、自ら進んで法の中で修める方がずっと良いのです。もちろん、私たちは旧勢力による迫害を恐れているのではありません。旧勢力による迫害はもちろんのこと、旧勢力そのものも私たちは認めません。自ら進んで法の中で修め、旧勢力にいかなる口実も与えないようにしましょう。
人為的に苦を探して嘗めてはいけず、邪悪が作り出した苦難の中で修煉することは尚更すべきではありません。私たちは法に則て修めて向上し、さまざまな人心を取り除き、耐えるべき苦しみに耐え、負うべきものを負い、負債をきれいに返済すれば、根本から旧勢力による迫害を一掃することができると思います。
では、耐えるべき苦とは何でしょうか? 座禅や站椿するときの腕や足の痛み、これは最も初期の、最も基本的な肉体的な苦しみであり、心をえぐる葛藤の中で心を修める苦しみなどもあります。実は、私が思うには、法をしっかり学んでいれば、これらのいわゆる苦は苦しみとも言えず、少なくともそれほど苦しく感じなくなるはずです。
早朝の煉功を例にすれば、時間通りに行っていないことが結構あります。目覚まし時計が鳴ったら、聞こえないときもあれば、聞こえても、消してからしばらく横になっていたり、あるいは横になっている姿勢を変えたりして、とにかく自分を楽にしてから起き上がって座禅を組みます。その安逸心がある限り、それはいろいろな口実をもって修煉者が精進しないように足を引っ張るのです。それに従えば、また眠ってしまい、早朝の煉功を逃してしまうのです。これが安逸心による妨害です。
今の私は、目覚まし時計が鳴ったらすぐに寝返りをうって起き上がり、安逸心に隙を与えません。起きる前は、眠たくて寒くて(これはその安逸心の感覚です)、いろいろと大変ですが、私はその感覚を感じないようにしています。いざ突破できれば、眠いとか苦しいとか、それは何ものでもありません。早朝の煉功が終わった後はすがすがしくて、それこそが修煉者の状態なのです。
安逸心のほか、私にはまた色欲の心、物を蓄える心、貪欲の心、そして大法の中で他人の功績を横取りする心も時折みられます。色欲の具体的な現れとしては、洋服を買ったり、おしゃれをするのが好きだということです。色欲も安逸心とある程度関係していると考えています。美しい服を着て褒められたり、羨ましがられたりすると、色欲の心が満足感を得て、安逸心も気分が良くなります。これからの修煉の中で、私は安逸心とともに色欲の心も一緒に取り除いていきます。その念が出てきたらすぐに認識し、きれいに一掃します。
罪業こそが、旧勢力が修煉者を迫害する口実であることを理解できれば、迫害の実態を伝え、法を実証することで迫害に遭ってしまうという誤った観念を簡単に打ち破ることができます。また、恐れる心も修煉者の空間場では生存し辛くなり、私たちは修煉者のすべきことをよりよく行うことができるのです。
以上は現段階での個人的な悟りです。書き出して印象を深め、自身に重視を促すと同時に、同修にも参考となればと思いました。
法に符合しない部分があれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。