文/中国の大法弟子
【明慧日本2025年4月19日】明慧ネットに「それらの考えはどこから来ているのか?」という交流文章が掲載されました。この文章の作者は友人からのメッセージを受け取りました。その主な内容は、彼はやらなければならないことがあるのに、どうしてもやりたくなく、自分が怠けていることに悩んでいるというものだったと述べています。作者の同修は友人の修煉における行き詰まり(ボトルネック)に対し、法に基づいて返答しました。
長い間、私も怠惰、安逸心、恐れなどの不正な念を自分自身だと思い込み、それに振り回されていました。師父が何度も示唆してくださったにもかかわらず、私は悟らず、何度も同じ過ちを繰り返してしまいました。そして、旧勢力に弱みを握られ、危うく命を落としかけたことが何度もありましたが、その度に師父に助けを求めたおかげで、旧勢力の企みを阻止することができました。この痛ましい経験を公開することで、師父が世の人々と大法弟子を救うために大きな犠牲を払って延ばしてくださった一分一秒を大切にしたいと思います。
長い間、私は安逸心を養ってしまいました。その表れとして朝に静功を終え、6時の正念を発した後に少し休もうとして横になり、そのまま眠ってしまいました。そして眠ると夢を見ました。ある時には家に近づいているにもかかわらず帰り道が見つからない夢、またある時には家に帰ろうとしているのに帰宅するバスに乗り遅れる夢を見ることがありました。目覚めた後、師父が安逸心や睡眠への執着を求めてはいけないと教えてくださったと気付かされました。怠けたら、師父に随って家に帰ることができなくなります。
しかし、十分に重視しなかったため、同じ過ちを繰り返し犯してしまい、不正な念によって横になることを制御できなくなりました。この状況で旧勢力が付け込む隙を得てしまいました。その後はただ悪い夢を見るだけでなく、目覚めたくても目覚められない状況になりました。その時には主意識が身体を制御できなくなっていました。幸いにも危機的な状況で師父のことを思い出し、夢の中で「師父、助けてください」と叫びました。師父の助けのおかげで目覚めることができました。
最後の一回は朝、6時の正念を発した後、また疲れて眠くなり、思わず横になってまた眠ってしまいました。夢の中で、私はある服屋に行き、快適でゆったりとした服を選んで家に帰りました。家の扉を開けると、しばらく帰っていなかったような感覚がありました。家の中では、小さな動物が痩せ細り、ほとんど死にかけていました。しかし私はそれに構わず、そのままベッドに向かい横になりました。その時、その瀕死の小動物が私の前に来て助けを求めました。それを見て、私は起き上がって助けたいと思いましたが、どんなに力を振り絞っても起き上がることができませんでした。そこで夢の中で再び師父を思い出し、大声で「師父、私は自分の身体をコントロールしなければなりません!」と叫びました。そして目が覚めました。師父はまたしても、この不甲斐ない弟子を救ってくださいました。
偶然にも、前日に読んだ「それらの考えはどこから来ているのか?」という文章をまだ同修に渡していなかったので、もう一度最初から最後まで読み直しました。師父の関連する説法と照らし合わせながら朝の夢を振り返ると、師父がこの夢を通して再び私に示唆してくださったと悟りました。それは私がこの肉体(「快適でゆったりとした服」)への執着、快適さや安逸への執着、自分の世界の衆生(「瀕死の小動物」)への責任感不足、それらの生死を顧みない態度、そして師父による度重なる啓示を軽視し、修煉の厳粛さを認識していませんでした。このような大きな漏れが旧勢力に付け入る隙を与え、私を命の危機に追い込もうとしていたのです。
私は繰り返し師父のこの法を読み返しました。「人間の身体は服のようであり、考えは帽子のように、誰かがそれを着たり被ったりすると、その人になります」(『北米第一回法会での説法』)。見れば見るほど、ぞっとします。本当に、私たちの主意識が緩んで自分の身体をコントロールしないとき、外来の生命がそれを支配しようとします。これは非常に危険なことです! 幸いにも夢の中で、私は衆生を救おうという一念と、自分の主意識で自分を支配しようという決意を持つことができました。師父はまたしても私を救ってくださいました。
同修者とさらに交流したいのは、怠惰、やりたくない、恐れる心、安逸心などの不正な考えや念は、本当に私たち自身から発せられたものではないということです。それらは後天的に形成された観念や業力であり、旧勢力によって強化され、修煉者の脳内に打ち込まれたものです。それによって旧勢力は大法弟子を支配し、大法弟子を破壊しようとしているのです。
最後に、今年の「世界法輪大法デー」の作品募集の活動への参加について考えを共有したいと思います。「5月13日」の作品募集の通知を見たとき、私たちは真に修煉弟子として法を証明し、師父が求めることを圓容しなければならないと理解しています。しかし、自分も投稿を書こうと思いながらも、なかなか筆が進みませんでした。今日に延ばし、明日に延ばし、週末に延ばしてしまい、その週末も逃してしまうという状況でした。師父が早く筆を執るようにと諭してくださったのに、どうしても躊躇してしまいます。「それらの考えはどこから来ているのか?」という交流文章を読んだことで、私は完全に理解しました。書くのを嫌がる気持ち、難しさを感じてしまう心理、なかなか書き始められないという考えは、実は私たち自身のものではないのかもしれません。また旧勢力が仕組んだ邪魔や妨げなのです。
同修のみなさん、本当の自分を取り戻し、大法を証明し、世の人々と無量大穹内の衆生を救うために、一刻も早く筆を取り行動しましょう!