文/中国の大法弟子
【明慧日本2024年2月22日】中国共産党(以下、中共)による25年間におよぶ法輪大法への迫害の中で、無数の大法弟子は同じ質問をされていました。「あなたはなぜ、これほど信念を貫くのですか?」違法な拘留、労働による再教育、判決、公職の罷免、経済的迫害、拷問、さらには迫害によって死に至ることに直面しても、数え切れないほどの大法弟子は自らの信念を貫くことを選択し、さまざまな方法を使って法輪功への迫害の実態を中国の国民に伝え続けてきました。
今日、私は自らの経験をもって、私たちはなぜこれほど堅持するのかをお話ししたいと思います。
一、幼少期
私は1970年代の生まれです。母は負けず嫌いな女性で、父は働き者でした。しかし、長年の労働のせいで、両親はともにさまざまな身体の不調に悩まされていて、葛藤が生じる度に、喧嘩もよくしていました。
親戚の勧めで、両親は1996年に法輪大法を修煉し始め、劇的な変化を経験しました。2人とも健康状態が良くなっただけでなく、父は酒もタバコもやめました。夫婦喧嘩がなくなり、家庭も睦まじくなりました。毎晩、彼らは欠かさずに煉功点に行って煉功と学法を行い、その後の交流では自分たちが持っている執着やよくできなかった点についても話し合いました。
家庭生活もシンプルで、楽しくて充実したものになりました。家では師父の説法録音がよく流れていたので、そこから知らず知らずのうちに影響を受けた私は、人間として従うべき道徳基準を知り、どんな状況に置かれても人を傷つけたり、罠に落としたり、騙したりしてはいけないことが分かりました。
残念なことに、当時20代だった私はいわゆる「素晴らしき生活」にまだ憧れていて、母から何度も修煉を勧められたにもかかわらず、修煉を始めることはありませんでした。
二、困難な時期
1999年7月20日、中共の前指導者である江沢民が法輪大法への弾圧を開始しました。一夜にして、すべての学習者は堅持と放棄、良知と利益の選択を迫られて、プレッシャーは耐え難いものでした。
法輪大法から心身ともに恩恵を受けてきた両親は大法の素晴らしさをよく知っており、自分の信念を貫くことを選び、政府に陳情しようと北京に行くことを決意しました。私も中共の法輪功に対する誹謗中傷の宣伝がすべて嘘であることを知っていました。なぜなら、私の周りには、「自殺」した学習者や精神病にかかった学習者はまったくいなかったからです。両親の身の安全を心配しつつ、彼らの選択とやり方は理解できていました。
北京に陳情しに行く度に、両親は不当に拘留され、強制労働収容所に送られていました。私も両親を訪ねるために、拘置所、留置場、そして強制労働収容所を行き来しなければなりませんでした。
両親が強制労働収容所に送られた後、拘置所から母の綿入れの上着を取りに来るようにとの電話がありました。着古した衣服が血まみれで破れているのを見て、私は涙を流しました。大法のために一言公平な話をしようとして、母がどれほどの苦しみを味わったかと思いました。自転車で家に帰る途中、涙を流しながら私は思わず心の中で師父にこう尋ねました。「師父、この迫害はいつ終わるのでしょうか?」
家には私しか残っておらず、毎月2カ所の強制労働収容所を行き来しなければならないため、フルタイムの仕事を見つける術がなく、収入もなく、苦しい生活を送っていました。親戚の中には、巻き込まれることを恐れて、助けることができないと明言する人もいました。その数年間、私は本当に人情の移ろいやすさを味わいました。そうした困難な状況下でも、私は常に師父の教えを心に留めて悪いことをせず、どんなに苦しくても、人には一切迷惑をかけないように努めました。
親切な学習者のおばさんたちは私を忘れておらず、よく訪ねてきて生活費をくれたり、卵を買ってくれたりしました。ある学習者は、同じく学習者である自分の娘を私に紹介し、後に私の妻になりました。
三、修煉し始めて、人生の意義を知る
2002年、『轉法輪』を真剣に読み始めて、私はやっと大法の素晴らしさを知り、そしてなぜ多くの大法弟子が次々と捨て身の覚悟で、大法の無実を訴えようとしたかが分かりました。師父は、人間が生きる真の目的は、宇宙の最高特性である「真・善・忍」に同化し、返本帰真だと教えられています。私はついに修煉者となり、大法弟子になりました。
大法の法理を理解していくにつれて、私は徐々にどのように修めるべきかが分かり、大法の基準に従い細かいことから行動に移しました。2003年、私はある大きな国有企業に採用されました。当時の国有企業は仕事が少ないわりに人ばかり溢れていて、待遇も一律でした。私は師父の教えをしっかりと心に刻み、最善を尽くすように仕事に取り組みました。
その冬、会社では多くの屋外での肉体労働がありました。気温がマイナス10度という寒さの中で、同僚たちはしばらく仕事をしてから、みな室内に逃げ込みました。広い作業現場で、私1人だけがシャベルを持って仕事をし続けていて、昼食を済ませてから退社まで仕事を続けました。
この作業は10日以上続きましたが、その間、最後まで働き続けたのは私だけでした。後日、会社のリーダーが管理職全員の前で、「某某(私のこと)は会社のことを家のことのように扱い、人が見ていようがいまいが、常に同じ言動をしています」と私を褒めました。実は、私がしたことは、数多くの大法弟子が日々していることと同じで、どこにいても率直で公明正大に振舞うようにしていただけでした。
四、人々に迫害の実態を伝える
なぜ学習者がさまざまな方法で法輪功迫害の実態を人々に伝えようとするのかについて、理解に苦しむ人が多くいますが、理由はとても簡単です。中共は国家のメディアを総動員して法輪功を誹謗中傷した上、学習者が意見を述べたり訴えたりするすべての通路を封鎖してしまったため、学習者は資料を配ったり、面と向かって真実を伝えたり、電話をかけるなどして、法輪大法について世人に分からせるしかないのです。
仕事の合間に、私はよく同僚と法輪功について雑談し、中共による誹謗中傷の疑問点を指摘しました。その後、グループ会社に異動してから、私はインターネットを使って真相を伝え始めました。偶然な機会に、私は電子メールで真相を伝えるのが良い方法だと気づき、暇さえあればメールアドレスを集め、大量の真相メールを送信しました。
反響は上々でした。あるネチズンはこう答えた。「隊員です。ネット封鎖を突破して海外のウェブサイトにアクセスし、脱退しました。君たちを永遠に応援する!」「ありがとうございます。気を付けて下さい」と返信する人もいました。このようなメールを見る度に、私は彼らが真相を理解したことに心の底から安堵感を覚えました。
五、拘置所でも大法を実証する
2009年、私は会社の重役に昇進しました。しかし、法輪大法の資料を配ったため、私と妻は不当に連行されました。拘束されている間、私は明後日に重要な仕事があるので、私の仕事を引き継ぐ人を来させるよう、会社に連絡してほしいと警官に頼みました。取調室に連行された後も、私は引き継ぎのための依頼をしていて、ある警官は感動して大声でこう言いました。「私がビジネスをやっているなら、絶対にあなたのような人を雇う!」
その後、私は不当な家宅捜索を受けて、拘置所に入れられました。会社の責任者たちは何度も国保大隊のリーダーに接触し、私を保釈しようと試みました。当時、私は「三書」さえ書けば普通の生活に戻り、前途洋々な人生(私は会社が重点的に育てているグループ会社の副社長の候補だった)を送ることができていました。
法輪大法は偉大であり、人々に善に向かうことを教え、私に人生の真の意義を分からせてくれました。大法の教えのおかげでキャリアを積むことができた私は、どうして未来のために、良心に背いて偽りを言うことができるのでしょうか?! 私がすべきことは、大法弟子の優しさをもって、法輪大法の素晴らしさを実証するだけなのです。私は自分の信念を貫き、決して良心を裏切り、法輪大法に損害を与える悪事をしてはなりません。
拘置所には、収賄の罪で拘留されたGという人物がいて、連行される前は刑事警察隊の警部補でした。時間がある度に、彼は私と法輪大法について討論していました。ある日の午後、私は彼と深く交流し、彼にこう言いました。「大法を修煉してから、私は仕事でキックバックを一度も受けたことがなく、一夜限りの関係はおろか、取引先が斡旋した女性サービスやマッサージも受けたことがありませんでした。大法を学ぶことは、心から善良な人間になることです。しかも、修煉して以来、私は薬を一錠でさえ飲んだことがなく、心身ともに恩恵を受けたと言えます。それに、私だけでなく、真に修煉している大法弟子なら、皆がこうします。今後、他の大法弟子に会う機会があれば、彼らを最も信頼できる人として接してもよいのです」
私の話を聞いて深く感動したGは夕方、テレビニュースを見ていたとき、私の座禅の姿を真似て、あぐらをかいて目を閉じて聞いていました。その後、監房の中で、彼が法輪功を迫害した悪報で収監されたと揶揄されたとき、彼は反論せず、ただ笑っていました。
紛争で誤って村人を殺してしまったYという誠実な農夫がいました。彼は私が収容された日から私を観察していました。少し親しくなった後、彼は私にこう言いました。「君を随分観察していましたが、テレビで宣伝しているような人間ではなさそうです」私は微笑んで彼にこう言いました。「兄さん、あれは共産党が大法への迫害を正当化するためにでっち上げた嘘で、真実ではありません。あなたの村や近くの村にも大法弟子がいるはずです。彼らが異常だと見たり聞いたりしましたか?」Yは頷きながら、「確かにあなたが言った通りです」と言いました。
拘置所にいた間、私は年配者の洗濯を手伝ったり、裁縫を知らない人の布団を直したり、法律を知らない人の訴状を書いたりしました。また、私は率先して掃除にとりかかり、皆が知りたがっていることや相談したいことにはいつでも熱心に答えました。
ある日、控訴中の別の死刑囚Zが不思議そうに私にこう尋ねました。「あなたはどうして何でも知っているのですか? もし私が生きて出所できるなら、将来必ずあなたを探して教えてもらいます」拘置所で私の親友になったYも、この場面を目にしました。Yは何度も皆にこう言っていました。「以前は何も知らなくて、中共の言うことを信じていました。今やっと分かりました。大法は本当に素晴らしすぎます!」その後、Yは無期懲役を言い渡されました。皆は刑の軽さを不思議に思っていたところ、私だけが分かっていて、Yに「兄さん、あなたは真相を理解したので、福報を得ましたね!」と嬉しそうに言いました。Yは「嫁に、この大法を学ばなくてはならないと伝えるつもりです!」と興奮気味に言いました。
一審で私は5年の禁固刑を不当に言い渡され、上訴しても原審が維持されました。新しい刑務所に送られた後、私は2人の受刑者に24時間体制で監視されるようになりました。ある夜、私がトイレから戻ってくると、監視役の受刑者はどうしても私と話したいと言いました。そこで、私は当直の受刑者と彼に、1998年に全人代主席の喬石が引退したベテラン幹部たちを率いて数カ月にわたって法輪功を調査したこと、および国家体育総局の法輪功に関する報告書について話し、彼らが得た結論は「法輪功は国にも民にも、百利ありて一害なしだ」とのことも伝え、「天安門焼身自殺」事件の数々の疑点についても逐一彼らに説明しました。
「中共はなぜ国民に法輪功の本を読ませないと思いますか? 法輪功の本を読めば、人々はすぐに法輪功が善か悪か、正か邪かが分かり、中共の嘘がばれてしまうからです」など、私は30分ほど話し、受刑者たちは真剣に聞いてくれました。当直の警官に気づかれれば、受刑者たちが怒られることを恐れて、私は時間があればまた話そうと言いました。彼らはまだ聞きたい様子で、「やっと分かった!」と口を揃えて言いました。
刑務所に着いた後、私は副監区長に「罪を認めない、勉強に参加しない、労働にも参加しません」と宣言しました。刑務所での4年余りの間、私は正直さと優しさ、他人をよく助けることで、多くの受刑者に大法の素晴らしさを分からせました。
私と親しくなった受刑者Gは、こう言っていました。「ここに来る前、あなたの仲間に遇ったことがあります。しかし、時間が短くて、はっきりと説明してくれませんでした。今はよく分かりました」Gとは出所してから今でも、私とずっと連絡を取り合っています。
Zは警官も頭を抱える重罪犯で、その乱暴な振る舞いのため、この刑務所に来る前は3つの刑務所にいました。Zは減刑にまったく興味がなく、警察もなす術がありませんでした。彼は何年も家と連絡を取っていなかったため、家族との面会もありませんでした。私はよく彼に日用品や食ベ物を買い与え、彼と雑談するのも好きでした。Zは他の受刑者を見下していて、目にはヤクザ社会の兄貴しかありません。しかし、彼は私にはとても親切で敬意をもって接し、私も彼に対して誠意を尽くすようにしました。
Zは共産党をひどく憎んでいて、受刑者が減刑のために金を使うことや、看守が虚偽を弄する現象をよく批判していました。彼は法輪功に同情し、私の叙述で大法について理解しました。私はいつも彼に消極的にならず、諦めず、早く家に帰るように努力するよう励ましました。私の忠告を聞き入れた彼はようやく家族に連絡し、家族も面会に来てくれたり、お金を貯めてくれたりするようになりました。彼の心も極端で偏執的なものではなくなりました。私が解放された当日、Zは運動場から私が刑務所の外に出るまで、じっと私を見ていました。
時々、刑務所の高い塀の外にある万戸の灯りを見て胸が熱くなり、「この瞬間、もし私が外にいるなら、きっとまだ飛行機で飛び回り、コンピューターやオフィスビルに囲まれたエリート生活を送っているのかもしれない」と考えることもありました。しかし、刑務所での数年間を経て、私は損得にとらわれず、他人を思いやり、良心を貫く真の大法修煉者となりました。
六、再スタート
当時、私と一緒に連行された妻は、1年間の不当な強制労働を強いられました。解放された後、妻は次第に正気を失っていき、私が帰宅した頃には、もはや私を認識できない状態で、しかもよくボロを着ていて、衣服をまったく身につけていない時もありました。獄中での5年間を経て、私はさながら隔世に来たように思い、一時は妻の異変に少し耐えられませんでした。
私はひとまず実家に戻りました。両親は私に、まず心を静めて学法と煉功に励み、それからゆっくりと妻に接し、慣れるようにと言いました。しばらく自分の状態を整えてから、私は自分の家に戻り、両親と義父母の助力の下で妻の世話をし始めました。
妻の面倒を見ることは、私にとってまさに一種の修行でした。妻は普通の生活ができず、毎日くだらないことを言ったり、あれもこれも食べずに食事を拒んだりして、時にはキレて人を罵ることもありました。辛くて耐えられない時、両親は同修の立場から、「修煉者の心構えで魔難に臨み、自らの心性を高め、苦しみを喜びとして受け止めなさい」とアドバイスしてくれました。
このような状況を前にして、常人であれば、ずっとそばにいて付き添うことは難しいでしょう。しかし、修煉者にとって、それは避けることのできない義務です。毎日、私は食材を買って料理し、家事をこなしながら妻の身の回りの世話を懸命に行いました。彼女が失禁してベッドで排泄したとき、私はすぐに洗って乾かし、彼女に激しく悪態をつかれたときも、私は黙々と法を暗唱し、心が動じないようにしました。ここまで中共に迫害されてしまった妻を見るたびに、私はなお、彼女を大切にしなければならないと思いました。
多くの親戚や友人は、両親と私が信仰のために多くのものを失ったと思い、私たちのことを気の毒に思っています。しかし、私たち自身は法輪大法の素晴らしさ、および邪悪の迫害手段は卑劣で恥ずべきもので、明るみに出せないものだとよく分かっています。私たちの行いは自身のためではなく、人間の真理と正義を守るためのものなのです。確かに多くのものを失いましたが、私たちの心はこの上ない充実感に満ちているのです。
大法をよりよく実証するために、私は家庭のことをきちんとこなした上で、仕事に就こうと考えました。2016年、私は地元の有名な飲食関係の会社の重役として採用されました。大法弟子としての責任感と長年の企業管理の経験を生かし、私は会社の経営プロセスとシステムを最適化し、社内の業務効率を向上させ、董事長から高く評価されました。
一定の経験を積んだ後、私は数人の友人と一緒に自らの飲食ブランドを立ち上げました。優れた企画、およびしっかりした高品質の製品により、わずか数年で私たちは地元で有名なレストランとなり、私も地元のビジネス界でちょっとした有名人になりました。親戚や友人は私の業績に驚いています。彼らは恐らく、私たち一家が大きな打撃と厳しい迫害に耐えてきた後、これほどの成功を収めることができるとは想像もしなかったでしょう。
キャリアと家庭のために私がどれだけの心血とエネルギーを注ぎ、どれだけの苦痛に耐えたのか、そして両親がどれだけの支援と助力をしてくれたのかは、私だけが知っています。大法がなければ、これらのことは私にとってとてもできなかったでしょう。
以上は私が身をもって経験したことです。話したいことがありすぎて、その一部だけを抜粋し、私たちがなぜこれほど法輪大法の修煉を堅持しようとしたかを説明してみました。真理のために、道義のために、そして中華民族の未来のために、私たちは永遠にこうして堅持していくのです。
(明慧ネット第24回世界法輪大法デーの入選文章)
(編集責任者:伊文)