文/中国の大法弟子
【明慧日本2024年2月27日】私の顕示心は昔から根付いたものです。法輪功を学び始める前の私は、人生の意義とは自分の存在価値を証明することだと感じていました。 そのため、自己顕示欲や嫉妬心がとても強く、自分には個性があり、頑張り屋は良いことだと思っていて、極端なことをしてしまいました。
また、顕示心により、口を修めずに話したり、偉そうな言葉を何気なく話したり、自慢話などを延々と話し続けて見栄を張ったりすることもあります。思想の意識と表現に関して言えば、それは『轉法輪』で述べられているとおりです。「こんなにたくさん学習者がいる中でも、自分がいちばん分かっており、誰よりも自分がいちばん物知りであるかのような顔をしています。本人にとってそれはもうごく当たり前のことで、無意識にやっているかも知れません」
ある日、同修と交流する中で、私は、別の同修が自分の考えを表現するのがとても好きで「いつも話が長い」と話したとき、皆が笑いました。ある若い同修が私を見つめて笑い続けていたのですが、私が長い話をし終わったとき、彼女は私に「あなたもそうですよ」と言いました。 私はとても恥ずかしくて何と言ったらいいのかわかりませんでした。
上顎の大きな歯は片方だけ大丈夫なのですが、昨年、もう片方の大きな歯が完全に緩んで使えなくなりました。歯科医は、私は重度の歯周病を患っており、今ある歯を残すためにはそれを治す必要があると言いました。根治療法は非常に痛みを伴い、すべての歯肉弁と歯の根元から歯石を深く除去する必要があります。治療するたびに歯茎の周囲を縫合する必要がありますが、これは非常に辛いものです。あまりの辛さで何も話したくないし、食事もしたくありませんでした。そして、夫(同修)は私に「お前はどれだけ悪いことをしたのだろう? どれほど多くの言ってはいけないことを言ってしまったのだろう? 多くの人を傷つけたのではないのか?」と言いました。若い頃は、他人が認めるか認めないかを気にせず、気丈に発言していました。今、自分はぐるぐると縫合しなければならず、まるでこの歯が拷問を受けているような気分になりました。
私は、20年以上修煉してきましたが、最近、顕示心があらゆる考えに反映されていることに気づきました。たとえば、家事を片付け、掛け布団をたたみ、枕カバーを敷いているとき、私は無意識に「枕カバーがきちんとしていて見た目がきれいだ」と考えました。すらすらと法を暗唱するとき、思わずに「うまく暗唱できたわ」と思いました。安い服を着て素敵だと感じると「自分の気質が良いから、安い服を着ても高価に見えるのだ」と思ったりします。仕事の業績が良いときは、自分には能力があり、大変良くできたと思いました。
ある日『轉法輪』第六講の「顕示心」という部分を暗唱していたとき、突然、私の人生のいわゆる知性や能力など、すべてが大法から与えられたものだと気づきました。私の命まで師父から与えられたものなので、誰に見せるのでしょうか? 何を見せるのですか? 自分を前に置いて、大法を後にするなら、それは師と法を尊敬しないことになりわしませんか?
この文章を書いているいまでも、冷や汗が出てきました! 同修の交流文章で、関を乗り越えたときの正念は、自分の能力ではなく、師父の加持によるものであるとありました。 まるで私に話しているようです。私は恥ずかしいこと極まりないと感じました。私は立ち上がって、静かに『轉法輪』を手にして、この段落の説法と照らし合わせた時、内心とても恥ずかしくなり、涙が出そうになりました。実際はかなり前から認識していた問題なのですが、それを抑制したり修めたりせず、認識した考えに留まっただけでした。まだ自分が良く悟ったと思っていたので、この顕示心を私の空間場に自由に存在させ、マイナスの作用になってしまいました。私の正念が強くなければ、旧勢力はそれを利用して私の顕示心を強め、修煉を妨げ、魔難を拡大させました。いまはその危険性を十分に理解したので、私は躊躇せずにそれを排除し、解体しました。
振り返り、自分の内に向けて探している中、突然、数年前に同修である姑が病業で自分の身の回りのことができなくなったことを思い出しました。自分の顕示心が引き金になったように感じました。その時は自分の顕示心がとても強かったのです。
数年前、親戚の娘が結婚適齢期になったので、口が達者な私は、親戚から「雰囲気を盛り上げることができる」と言われて、お見合い相手の男性の家に招待されました。私は喜んで行きました。男性の家には両親も紹介者も同席しており、皆さんとお話することができ、家中が笑い声に包まれ、とても賑やかな雰囲気でした。その夜、自分はとても有頂天になりました。自分がどんな場でも恥をかくことはないと思っていたので、本当に雄弁でした。帰り道、紹介者は私がかなりはしゃぎまくったと言いました。私は少し不満なのですが、それについてはあまり深く考えませんでした。
帰宅後、まだ起きていた姑に、その日のお見合いの雰囲気がとても良かったことを伝え、婚約するまでになりました。もちろん、雰囲気作りが上手いことを自慢することも忘れません。真夏でとても暑く、姑(同修)は扇風機を頭方向に当てながらベッドに横たわっていました。私の生々しい説明を聞きながら、姑はとても嬉しそうに笑い続けました。自分は興奮しすぎて、その夜は心拍数が高くて気分が悪くなり、なかなか眠れませんでした。
翌朝、煉功をしていたとき、4式の功法を行っていた最中に、偶然目を開けると、姑が地面にうつむいて横たわっているのが見えました。立ち上がって煉功をする段になっても、姑は体を持ち上げることができず、地面に倒れました。私は慌てて声をかけ、夫と2人で抱きかかえてゆっくりとソファーに移しました。姑は汗だくになり、服もびしょ濡れになり、嘔吐していました。午後に病院へ送ってもらいました。病院から戻った姑は、もう自分の身の回りのことができなくなりました。10年以上にわたり、このことは私と夫(同修)に生活と修煉の両面で大きな艱難をもたらしました。姑は若い頃から高血圧で、よくめまいがしましたが、法輪功を学んでから、めまいを感じなくなりました。 昨年、姑は重い病業で亡くなりました。
姑が倒れるまでの過程をよく思い出します。その暑い日、もし私があんなに見栄を張り、興奮しながら姑に顕示しなかったら、姑もそうならなかったかもしれません。その後、親戚から「こんな遅い時間に、こんな暑い日に、姑を興奮させてはいけなかった」と言われました。親戚は、私に罪悪感を感じさせるのではないかと心配し、私が姑の世話をしていることを見て、私のことを言わなくなりました。
10年以上経った今でも、この事件のことを思い出すと胸が張り裂けそうになり、深く後悔しています。時々、自分が顕示心を自覚しているように感じることがありますが、それを取り除いたわけではないようです。なぜなら、この執着心の存在はさまざまな形で現れるからです。この行動に注意を払ったら、他の面でそれを現してしまいました。自分の実力を表に出すことを控え、目立たず、穏やかにしていますが、他人から褒められるとやはりうれしくなり、潜在意識では他人に注目してもらいたいという考えがあります。中には非常に微妙なものや、他の良くない心が隠れているものもあります。たとえば、他の人が私のイメージが良い、着こなしが上手、若く見えるなどと褒めてくれたとき、自分はとても嬉しく思いました。そして、私はよく天猫サイトを見たりして、服を買うか買わないかにかかわらず、どのように合わせるかを研究しました。自分のカッコよさを見せびらかしているように見えますが、実はまだ色欲心が働いているのです…顕示心は歓喜心をもたらし、口を修めず、話は真実ではなくなり、口では善の言葉を話したとしても心には真の善はありません。
これに気づいてから、携帯電話の天猫ショッピングアプリを削除しました。正念が少し強くなった気がしました。 今では、毎日正念を発する前に5分間自分を静め、顕示心、歓喜心、口を修めないこと、自我に執着と利己的な考えを取り除きます。また、本当の自分とは、真善忍と同化し、慈悲深く善良で、恨みを持たず、苦しみを楽とし、無私であり、自分より他人を優先にする人であるという考えを強めました。自分の執着が強くて取り除くことができないとき、私はこう暗唱します。「私は李洪志の弟子であり、他の按排は要らない、認めません」(『二〇〇三年元宵節での説法』)
今、私は顕示心のさまざまな現れをよく認識することができました。顕示心が現れると、すぐにそれを抑え、滅します。私は宇宙の取るに足らない一粒子にすぎず、師父が私のすべてを造られました。私は善の念を持ち、顕示心は要りません。法をよく唱えると、心の中では顕示心という観念を取り除き、名、利、情という観念を取り除き、真・善・忍で自分を充実すると思うのです。
心を込めて法を学ぶということは、単に口で言うだけではなく、法を学んで心に浸透させなければなりません。そうすれば正念が生まれ、真の自分が自分を主宰できるようになるということを悟りました。