文/吉林省の大法弟子
【明慧日本2024年4月6日】最近起きた二つの事件によって、身に染みる苦痛の中で、自分の根本的な執着を見つけることができました。
ある時、学法グループで、私たちは席に着き、法を学ぶ準備をしていました。しかし、Aさんが突然大声で、何かがなくなったと言い、私をじっと見つめて「誰が私のものを取ったの? これは新しく買ったばかりのものなのに!」と言いました。明らかにAさんが私を疑っていると感じました。当時は何も言わず、そのまま学法を続けました。しかし、家に帰ると心が荒れ狂い、落ち着かない状態でした。
これまでの数年間を振り返ってみると、Aさんがこのように私に面と向かって侮辱したのは、これで4回目です。
最も深刻だったのは、ある日、Bさんと家で昼食をとっていた時のことでした。Aさんがやって来て、健康保険証を無くしたと言って、怒りをぶつけてきました。私は「大丈夫、誰かが拾ったとしても使えないよ」と言いました。するとAさんは、「どうして使えないの? 使えるかもしれないわ」と激昂し、私に向かって大声で「私はそれがどこにあるか分かっているわ。出てくるのを待っているだけよ!」と言いました。また「単なるクズだ、真に修煉していない!」と言い放ち、帰ってしまいました。思わずBさんと顔を見合わせ、Aは私が盗んだと決め付けていることに気づきました。当時、私は頻繁にAさんの家に行って法を勉強していました。その後も、同様の出来事が2度ありました。当時、私は自分自身の問題を探しましたが、いつも心の中で自分の心にやましいことがないと感じていました。何も悪いことをしていないため、何を言われても不安にならず、執着心を深く掘り下げることもせず、曖昧なままにしていました。
しかし、今回はもう我慢できませんでした。心の中で憤りを感じ、平静になれませんでした。偶然の出来事などないことを理解しています。しかし、これはどんな執着心を捨てさせるための試練なのでしょうか? きっと自分には大きな問題があります。そうでなければ、このような心の奥底を揺さぶるような出来事に遭遇することはあり得ません。心を落ち着かせ、自分自身と向き合い、多くの執着心を見つけました。それは、人の情に重きを置き、同修を良き友と考え、理性を失っていたこと。怨恨心、寛容さを持たず、自分の意見を曲げず、頑固で、他人からの不当な扱いを受け入れられないこと。ひどいめに遭いたくない心でした。
私はこれらの執着心を捨てようと決意し、自分に言い聞かせました。「韓信が股くぐりで辱められたことを思い浮かべてください。大興和尚は村人からの誤解で、未婚の女性と子供を持ったとされても、恨みも憎しみもなく、黙って子供を5、6歳まで育てた後、子供を両親に返したことを考えてください。自分は大法弟子として、これらのことができないのでしょうか? 忍耐することが必要であり、辱めを忍ぶことを含め、我慢ができるようにならなければなりません」
ある日、ロサンゼルス市法会での説法を読みました。その中の一節で「誰に言われても受け入れられるようにならなければなりません。心当たりがあれば改め、なければ気をつければよいのです。指摘と批判を前に、心が動じないようにすることができれば、あなたはすなわち、向上しています」と、師父は説かれていました。
自分の最大の問題は、他人に言われることを許さないことです。他人に誤解されることを許せないのは、他人に言われたくない心よりさらに強烈なものではないでしょうか? 実際、他人の批判や非難の中には誤解や根拠のないものも含まれるかもしれません。しかし、それでも心を動ぜず、内側に目を向け、執着心を取り除くべきです。
そこで私は、繰り返し師父のこの法を暗唱しました。「誰に言われても受け入れられるようにならなければなりません。心当たりがあれば改め、なければ気をつければよいのです」(『ロサンゼルス市法会での説法』)
心が荒れそうな時は、この言葉を胸に刻み、何度も何度も繰り返し覚えます。すると、徐々に心が落ち着いてくるのを感じました。この関門を乗り越えられたと思ったものの、次の関門に直面した時、今回の関門は、ほんの序章に過ぎないことに気づきました。
ある日、職場の同僚が電話で娘の状況を尋ねてきました。私はこれがAさんからの情報だとわかりました。娘のことは、些細なことかもしれませんが、個人のプライバシーに属するものであり、人に話してはいけないことです。私がAさんに娘の話をしたのは、自分が何を修める必要があるのかをはっきり分かっていなかったからです。それは同修同士での交流でした。思いもよらず、彼女は常人に話してしまい、職場で何人もの人が知ることになりました。私はもともと子供に対して、情が深く、子供への情の関門を超えることは、なかなか難しいものでした。Aさんの行動は私の心に大きな衝撃を与え、突然で激しいものでした。受け入れ難いほどの感情が湧き上がりましたが、自分を見つめ直す必要があると分かっています。時には外に強く向かい、時には内に向かい、多くの執着を探しましたが、正確な答えを見つけることができず、非常に無力な気持ちになりました。
学法を通じて、ついに冷静になり、乱雑な考えに邪魔されたり、支配されたりすることがなくなりました。また、本当に内に向かって、探すことができるようになりました。
まず、この出来事には業の因果関係があると考えました。
次に、自分自身に深刻な執着心があり、それが非常に根深く埋もれていることに気付きました。まるで打ち込まれた太鼓を重い木槌で叩かなければならないように、このように根深い執着は、強烈な方法で引きずり出さなければなりません。
自分の内心を深く探りました。その根深い執着は面子であり、他人を見下す心、嫉妬心、闘争心、口を修めていない、虚栄心などを見つけました。学法を通じて、冷静に自分を見つめ、執着心を深く掘り下げました。同修を怨むことは、もうありません。同修はこの形で私を助けてくれて、上に押し上げてくれています。このような形で私を助けてくれており、この縁を大切にすべきだと感謝しています。徐々に心が落ち着き、同修が私の業力消去と向上を助けてくれたことに感謝しています。
私は悟りました。この虚栄心、面子を保つ心は、非常に深く埋まっているものですが、それらの根源は何でしょうか? 情と名誉を求めること、名誉を求める根源は私のためだと思います。ここで、私はついに自分の根本的な執着心「自我」を見つけました。自分が現した面子を保つ心、虚栄心は、その偽りの自己のイメージを維持するためであり、言われたくないことと争うことは、その偽りの自己の尊厳を守るためです。怨恨心は、相手によって誤解されて、傷つけられた「自我」によるものです。すべての執着心は「自我」のためであり、そしてこれらの執着心は「自我」の根本的な執着の表象であり、外部の特徴です。私の心の奥に埋まっている最も根本的な執着心は、「自我」に対する執着です。
この根本的な執着を見つけた後、これらに付着している執着を取り除くことも簡単になりました。周囲の環境も変化し、問題に遇う時、耐えることができるようになりました。
ある家族の集まりの際、弟の嫁が以前の出来事を持ち出し、私を非難しました。心の中で「全くもって事実とは異なる!」と思いましたが、説明しようと思った瞬間に口を閉じ、心も動きませんでした。
自分自身を真に修煉しなければならないと自分に言い聞かせ、法を暗記し、できるだけ他人のことを考え、もはや自分のために言い争うことはしないように努めました。
ある時、またある人が私に非難を浴びせましたが、当時、私は微笑んで心が動じませんでした。その日のうちに、以前は棒のように硬かった両足は柔らかくなり、両足を組んで座禅をしながら、二講の法を学ぶことができました。
娘も徐々に苦難と迷いから抜け出しています。ある日、彼女が私に言いました。「一緒に大法の本を読もましょう」。その時、私は喜びと涙をこらえ、師父に対する限りない感謝で心が満たされました。