執着を認識し、善心を修める
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文/海外の大法弟子

 【明慧日本2024年4月25日】

 師父、こんにちは。
 同修の皆様、こんにちは。

 私は飛天大学のミッドタウンキャンパスの1年生です。このような修煉環境で、自分の不足と執着を認識できることに非常に感謝しています。今日は、私の修煉上のいくつかの体験と考えを皆さんと共有したいと思います。

 疑いを捨てる

 新入生として、自分が選ぶべき道について疑念と不確実性を感じていました。高校に在籍していた時、主に学業とSTEM(ステム・理工)科目に専念し、大学への申請をより良くするために努力していました。最初は、飛天大学中城分校への勧めに疑念を抱きました。他の大学の方が良い仕事を見つけやすいし、名前が知られているため、自分がより良く見えると思ったからです。振り返ってみると、私の顕示心と名声への執着が非常に強く、判断力を曇らせ、何が本当に重要であり、自分の目的は何なのか分からなくなっていました。

 師父は私たちに警告されています。「名声に執着するならば、有為の邪法で、もし世間に名を売っているのであれば、必ず口では善いことを言っていても、心は魔であって、大勢の人を惑わし、法を乱します」(『精進要旨』「修める者の忌」)

 疑念の背後には、名声を求める心、名声に伍対する執着がありました。これは危険な執着であり、私を正しい道から逸れさせ、修煉中に落伍させる可能性があります。この出来事により、修煉を再認識し、法を実証し、衆生を救う使命を自覚することができました。この認識に至った後、私の頭は冷静になり、外見的な利益を得ることではなく、何をするべきかが明確に理解できるようになりました。

 後に、私はどの専攻を選ぶべきかという問題に直面しました。データサイエンスを選ぶだろうと考えていました。それは実用的であり、安定した仕事を見つけられれば、快適な生活を送ることができるからです。自分はお金に執着していないと思っていましたが、そういった考えが現れたとき、法に従っていないことに気づきました。私は、まだ利己的で欲が強く、より多くの金銭を得て、より快適な生活を送るために努力していました。私はまだ一般の利益に執着しており、師父が『轉法輪』第二講で説明されている「利口になる」のと似ています。

 修煉者として、私は悪いものや物質的利益を捨て、師父が『轉法輪』で説明されている「次元の向上」を図るべきです。法を正す時期の大法弟子として、それぞれの人が果たすべき厳粛な誓約があります。私はこれに気づき、自分の道を見つけるために法をもっと学び、人間のロジテックや利益ではなく、法に従うべきだと考えました。

 これまで歩んできた道と自分の決断を自己反省してみると、これは師父が私のために用意してくれた道であることに気づきました。過去にSTEM科目に力を入れてきたのも、高校でプログラミングに出会ったのも偶然ではありませんでした。また、芸術にもずっと興味を持っていましたが、これも偶然ではありません。但し、深く勉強したり、趣味以上に真剣に取り組んだりしたことはありません。

 それでも、データサイエンスを学ぶ自分に疑問を抱いていました。単純にコーディングが楽しいとは全く思えず、難しいと感じました。プログラミング言語に対する嫌悪感をしばしば口にし、なぜこんな異国の言語を学ばなければならないのか、自問しました。

 師父は「やる気があるかどうか、気分が良いかどうか、愛しているのかそれとも憎んでいるのか、とにかく人類社会のすべてのことが情から出ています。この情を断ち切らなければ、修煉することはできません」とおっしゃいました。(『轉法輪』)

 情や生活の快適さへの執着が自分の決断に疑念を抱かせました。好みは一種の観念であり、すべきことを判断する基準ではありません。法を参照し、自分が何をすべきかを見極めそれをうまく実行することが大切です。自分の好みに執着し、嫌いなことを避けることは、修煉と目標を達成することの妨げになるだけです。情に執着するのではなく、どんなことでも全力を尽くすべきです。

 私は内面に向かって、自分自身の欠点を探す代わりに、勉強している科目の欠点をいつも探していたことに気づきました。必修科目を学ぶ理由は明らかであり、教授も教材を準備する際に多大な努力と配慮を注いできました。修煉者として、すべての行動は「善」であるべきなので、自分が難しいと感じた科目を罵るのは間違っており、また、他人の良いところを探すべきだということにも気づきました。したがって、データサイエンスを学ぶことは私が向上し、大法プロジェクトを支援するスキルを身につけるための良い機会だとようやく理解しました。

 また、私が授業内容を理解するのに苦労しているのに、同級生が良い結果を出しているのを見て、嫉妬心を抱きました。母と一緒に法を学んだとき、私の嫉妬心について話すと、母は「クラスメートは前世で苦労したかもしれないので、今は楽なのかもしれないよ」と諭されました。

 人の状態は、それぞれ違うということを忘れてしまい、彼らは今生で得るべきものを手に入れるために、どれほどの苦労を経験してきたのかを考えていませんでした。同級生は、賢くて能力があるように見えますが、その裏側でどれだけの努力をしているのか、誰にもわかりません。勉強が難しいときは、外にばかり目を向けて求めたり、他人と比べたりするのではなく、もっと努力すべきだと学びました。

 私は別の問題があることに気づきました。7年以上修煉しているにもかかわらず、師父がおっしゃった多くのことを経験したり感じたりしないので、いまだに師父や大法を疑う心があるのです。これは私の最大の不安要素のひとつとなり、自分が真の修煉者なのか、師父は私を見守ってくださっているのか、疑うようになりました。

 これらの疑念はすべて執着から来ており、他の側面でうまく修めていなかったために生じました。私は本当に法を学んでいるのか、ただ読んでいるだけなのか? 自分に対して厳格に法の基準を適用しているのか? 師父が私に対してどう思われているのかを心配するよりも、自分の修煉に集中すべきです。師父が私にしてくださったこと、法が教えてくださったことをすべて忘れてしまいました。しかし、今思い出すと、大法と師父を疑っていたことを恥ずかしく思います。師父がおられなければ、今の私は存在しません。師父は私の体を浄化してくださり、病気の感覚を思い出すことができないほど良好な状態にしてくださいました。

 私は健康であることが当たり前だと思っていて、修煉前の自分がどれほど病んでいたかを忘れていました。あまりの体調の悪さに、学校を中退しそうになったこともありました。これだけでも、師父が私にどれだけのことをしてくださったのかがわかるのに、あろうことか、私は師父を疑っています。

 疑念は、私の修煉に対して消極的な見方を持たせました。この強い執着が私の心性の向上を妨げ、真善忍の基準に従っていないことがわかります。自己の向上に集中しておらず、内側に目を向けていません。たとえ、ある分野で挫折したとしても、「転んでも起きあがれば修煉を続けることができます」(『轉法輪』)。このように自分自身を疑い続けるのではなく、執着を抱えるべきではありません。積極的な態度を持ち続け、法の指導に従って修煉を続けることが非常に重要であることに気づきました。

 「善」を修める

 最近、私は自分が「善」を修めていないことに気づきました。友達と話していて、高校時代の出来事についてたくさん話しました。最初は、日常のことについて話すだけで気分が良かったのですが、しばらくすると、同じ修煉者である別の友達が不快に感じてその場を離れました。後で彼は、われわれ修煉者は噂話をしてはいけないと教えてくれました。

 私たちの会話を振り返ってみると、私は他人に対して思いやり「善」がなく、相手の欠点を話して自分を楽しませていたことに気づきました。翌日、私は喉の痛みで目覚め、それが1週間続きました。これは口を修めることを無視し、「善」(思いやり)に従わなかったという明確な警告でした。私は自分自身に厳しくし、高い基準を守りながら他人に対して「善」なる心を持つべきだという貴重な教訓を学びました。

 振り返ってみると、私が慈悲心に欠けていたことを示すいくつかの出来事がありました。長い間、友人や家族を含め、他人の問題を指摘することは避けていました。人はそれぞれに修煉の道を歩んでいるので、その人の問題を指摘したら、助けるどころか邪魔をしているように感じました。実際は、心の奥底では、人を批判することで恨まれるのが怖くて、無関心なままでいました。自分のことばかり考えていて、面目を保ちたいと思っていました。他人に対して「善」なる心がなく、手助けしようともしませんでした。

 師父は「認識できなかった問題をほかの人が指摘するのは、もちろん間違いではありません。しかし、指摘するとき、必ず善意に基づかなければなりません。あなたも慈悲を修めているので、善意であるべきです」とおっしゃいました。(『ロサンゼルス市法会での説法』)

 今、なぜ修煉環境が重要なのかが理解できました。それはお互いを助け合い、一緒に向上することができるからです。私は無関心であってはいけません。代わりにちゃんと修め、慈悲心を持つようになり、そして、他人を助けることができます。

 「善」なる心に欠けていることを反省するとき、父親に対しても親切ではなかったことに気づきました。 私の幼少期、両親は夜勤で働き、父親はしばしば仕事で出張し、家には滅多にいませんでした。その結果、私はとても独立心が強く、特に父親とは距離感があったので、米国留学して高校に通っていたときでさえ、ホームシックになったことはなかったのです。

 夏休みに帰省したとき、理由もなく両親に冷たく接している自分に気づきました。自分の内に向かって探すと、父親に対して恨みを持ち、無意識のうちに不適切な評価をしていることに気づきました。これを理解したとき、私は修煉者として、また息子としてひどく失敗したと感じました。父に対する善意や寛容さ、親孝行もまったくしていませんでした。私の恨みは、両親がいつも一生懸命働いている姿を見ることを遮りました。見た目の表面的なことに執着するあまり、両親を含む他の人々の善意を見逃してしまいました。師父は常に善意を持ち、他人を慈悲深く扱うように教えてくださいました。

 私の慈悲心の欠如は、日常生活で他人をどう見るかにも影響を与えました。ある人の振る舞いをうっとうしいと感じたり、彼らの言うことすべてが耐えられないと感じたりしました。普段、何も良いことを言おうとしないなら、黙っておこうと思いましたし、自分を制御できたとしても、私はまだイライラして、非常に機嫌が悪かったのです。ネガティブな意見や良くない考えを抑えておくことで十分だと思っていましたが、師父は私たちに執着心を徹底的に排除し、慈悲心を実践する必要があると教えてくださいました。

 師父は「あなたは相手と同じように争ったり闘ったりしないだけでなく、心の中で相手のことを憎んでもいけません。本当に相手のことを憎んではなりません。相手のことを憎むと、腹が立ったことになるではありませんか? それでは忍を守れなかったことになります。われわれは真・善・忍を重んじますが、そんなことをすれば善のかけらもなくなります」とおっしゃいました。(『轉法輪』)

 これらのネガティブな思考を完全に取り除くことは難しいかもしれませんが、法をより多く思い出し、これらの良くない考えや判断が頭に浮かんだらすぐに止めるようにします。私は自分自身にもっと厳しくなり、真に自分自身を向上させ、真・善・忍の特性を同化させます。

 大学1年生のこの期間、自分自身についてより多く理解し、多くの隠れた執着にも気づきました。この環境の一員になれたことを非常に感謝しており、それが私をより精進させ、何が本当に重要なのかを認識させてくれました。

 師父は私にすべてが可能であることを思い起させ、多くの疑念や心配を取り除くのを助けてくださいました。私は皆がこの貴重な時間を精進し、共に向上できることを願っています。私の法の理解は限られていますので、欠点や執着があれば、どうか慈悲深くご指摘ください。

 師父、 ありがとうございます! 同修の皆さん、ありがとうございます!

 (飛天大学中城分校での「2024年法輪大法修煉体験交流会での発表」)

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2024/4/9/475043.html)
 
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