文/中国の大法弟子
【明慧2023年12月21日】私はずっと、自分には根本的な執着がないと思っていました。私が法を得てから今日に至るまで、自分自身の修煉の過程を何度振り返っても、何の問題も見つからなかったので、修煉に入った当初の目的は非常に純粋なものであると思っていました。
1998年の秋、当時大学生だった私はある朝、英語の本を片手に校内を歩いていると、学校の先生や学生やその保護者が気功をしているのを見かけました。彼らはかなり早い時間帯からやっており、私が見かけたときには、すでに第4功法をやっていました。
その頃、社会ではいろいろな気功が流行っていて、私は有料無料に関わらず、仏教、道教、キリスト教と複数の宗派に触れたことがあります。意味を感じとることができませんでしたので、どれも深入りはしませんでした。 彼らがやっているのを見て、この功法の動作はとてもシンプルだから、私にもできる、という思いが頭に浮かびました。彼らが煉功を終えると、私は1人のおばさんにこれはどのような功法かと尋ねました。おばさんは家につれて行ってくれて『轉法輪』が1冊しかなかったため『精進要旨』を貸してくれました。寮に戻った私は、早速読み始めました。数章読んだ後、その内容を理解し、これこそ私が探し求めていたものだと感じ、気持ちが高ぶり、迷うことなく自分も修煉したいと決心しました。翌日、私は朝早くから煉功点に行って待っていました。偶然にも、そこの若い協調人は法律を教えてくれる先生でした。こうして、私は少しの疑いや躊躇もなく、病気治療や他の目的もないまま、ただ修煉するために法輪功を学び始めました。
個人修煉の段階は順調に進み、名声、利益、情、病気などの試練もすべて大したことはありませんでした。私はこの世のすべてを放棄してもいいと思うほど一心に修煉し、円満成就に向かってひたむきに法輪功を学んでいました。当時、このような心境だったのは私だけではなかったようです。数年後、私より数歳年上の同修から聞いた話ですが、ある若い女性修煉者はわざと苦しみに耐えるために、夏は芝生で静功を行い、静功が終わると、200カ所も蚊に刺されたそうです。この女性修煉者は、裕福な家庭に生まれ、留学経験があり、とても頭脳明晰で直感も鋭かったのです。テレビで捏造された焼身自殺の報道を見ると、彼女はすぐに「あれは偽物だ」と言っていました。彼女は後に中国共産党に迫害され、命を失ってしまいました。このことを教えてくれた同修もひどい迫害を受けましたが、彼の大法に対する心は揺るぎなかったです。
一方で、私は法を正す時期になってからついていけませんでした。ある問題がますます顕著になりました。それは私は慈悲心を持つことができず、善心にも欠けていたのです。大法の素晴らしさを語り、衆生を救うといっても、理性的に自分にとってやりやすいことだけをやり、熱意も積極性もなく、誰とも親しくなく、他人が救われようが、何人救われようが全く気にしていませんでした。情がないように感じるが、善もありません。善がなければ悪に等しいのではないでしょうか。たとえ相手のためにと思っていることでも、口にすれば人を傷つけてしまいます。同修から「善を修めよう」と念を押されたことも数回あり、かつて「魔道を修煉してしまいかねない」と陰口を叩かれたこともありました。
そして、物事の出発点や考え方が間違っていました。例えば、同修に「修煉はそんなに難しくないよ、私は物事をシンプルに考えている」と自分の体験談を語ったことがあります。私は自分に対し、もしそうしたら後で後悔するかもしれない、後悔することがあるならやってはいけないと自問して、難に向き合ってきました。しかし、その出発点は自分を守り、後悔を恐れて、純粋ではないものです。それは他でもなく私心によるものです。最初はそれに気づけなかったのは修煉の時間が短いことを言い訳にしていましたが、すでに20年が経っていました。この程度の理でさえ、今ようやくここまで書いてやっと認識できたのです。修煉は、目に見える執着はわかりやすいのですが、目に見えない執着こそ悟る必要があります。私はかつて、自分が賢くて悟性が良いとうぬぼれていて、自分も気づかないうちに傲慢になっていました。
このような心持ちでは、法を正す段階で修煉の道を歩むことは本当に難しく、状態が良かったり悪かったりと揺らいでいました。 中共が法輪功を弾圧し始めてからというもの、ほとんど決まった住所に住むことができず、安定した修煉環境を失い、プレッシャーにさらされ、恐怖を感じて過ごしていました。そして、生活の中でのこまごまとしたことにとらわれ、学法が減り、正念も不足してしまいました。その結果、肉体的に疲労し、安楽に耽り、煉功もしなくなり、滑り落ちてしまいました。よくこんな夢を見ていました。夢の中で、私はよくトイレを探していましたが、やっと見つけてもとても汚かったのです。あるいは、新学期が始まっても宿題が終わらなかったり、試験に遅れたり、試験用紙の問題ができなかったり、大学受験で浪人になったり、バスに乗り遅れたりなどという夢ばかりでした。このような状態がしばらく続き、私は修煉できないために円満成就できないこと、最終的に来たところに戻れず淘汰されてしまうのではないかと、不安と恐怖の念に駆られました。 当時はこれらの考えがはっきりせず、どうして、そのような状態になったのか、自分でもよくわかりませんでした。
それから、もがきながら法を学び、明慧ネットで毎日の修煉体験文章を読み、同修を見習って、少しずつ良くなりました。同修に会いに行き、活動のことを聞き分担していただきました。 しばらくして、自分の修煉状態はだいぶ良くなり、同修との差もそれほど開いていないと感じてくると、内心で師父について帰れるだろうと思い、知らず知らずのうちにまた油断して、怠けてしまいました。状態が谷底に落ちてしまい、取り残されるのを恐れてまた踏ん張り出すという繰り返しです。毎回滑り落ちることも踏ん張ることも何かがきっかけとなることがありました。
このような放物線状のような修煉状態は、もし短期間であれば、自分自身ではなかなか気づかないものです。まるでぬるま湯でカエルを煮るが如く、配置されたメカニズムをすぐに変えられるわけではありません。旧勢力の按排した道を歩んでいると何度も感じて、きつく縛り付けられた束をなかなか解き放つことができませんでした。意識がはっきりせず、否定することもわからなかったのです。
当時、私は本当に迷走し、問題点がわかりませんでした。師父は『ロサンゼルス市法会での説法』である弟子の質問に答えられました。その弟子の質問は以下です。「持続力、意志は先天的なもので、定められたものなのです。私は意志が強くないので、歯を食いしばって決心して努力すれば、何日かはよくなりますが、長くは続きません。とても悩んでいました。どこが誤ったのかが分かりません。頑張って法を学び、法を暗記しましたが、変わりありませんでした。法を勉強することを通じて、意志を高めたいという考え自体が、求めることだからでしょうか? それとも、やはり法の勉強が足りないのでしょうか? もし、自分自身を大切にすることができないことが、根本的な原因であれば、まだ救いようがあるのでしょうか?」
師父は「もし、修煉がとても良くできている大法弟子が、理性的に大法とは何かを認識することができれば、きっと力を入れて行ない、この面において緩んでしまうことは決してありません。逆から言えば、精進していない弟子も法を勉強しており、法がとても素晴らしいと分かっていますが、法に則っておらず、正念も足りないので、認識はやはり高まらないのです。つまり、本当に法の貴重さを理解することができないから、なかなかやる気が湧いてこないのです」(『ロサンゼルス市法会での説法』)と答えられました。
この問題にとても怯えました。「法に則っていない」ということは棄権ではありませんか。しかし、自分は本当に大法のふちを遊離しているように感じ、その状態をもたらした原因が見つかりません。どこからともなく執着が絶えず湧き出てきて、それは本当に正しくない状態です。
数日前に読んだ同修の体験文章、その中には根本的な執着について触れた文章があります。私は自分に照らし合わせて考えてみましたが、それらの執着は私にもありますが、根本的な執着とは言えません。それで、師父にお願いしてみようと思い立ちました。すると、ある文を読んだときに、はっと自分の根本的な執着がわかりました。それは個人の円満成就に執着していることです。当初大法に入ったのは個人の解脱のためでした。ショックのあと、私はここ数年、なんの隙に乗じられたのかがわかり、違う形の迫害を受けていました。私は決してこれらのものを認めず、受け入れないと決心しました。
師父は「私は李洪志の弟子であり、他の按排は要らない、認めないと思えば、それらは恐れ怯えて手を下すことはできず、何でも解決することができます。あなたが本当にこれをやり遂げることができれば、口先で言うだけではなく、行動においてこれをやり遂げることが出来れば、師父は必ずあなたを支持します」(『二〇〇三年元宵節での説法』)と説かれました。
私はここではっきりと断言します。今生の私には1つの身分、大法弟子であることに限ります。私には一人の師父、李洪志師父しかいらっしゃいません。私は一つのこと、真相を伝え、衆生済度することしかしません。
師父は「真相を伝え、衆生を救い、これはすなわちあなたが行うべきことです。これ以外に、あなたが行うべきことはなく、この世界であなたが行うべきことはありません。あなたはこれらのことを行うべきですが、一部の人は自分が修煉しているという気持ちさえ薄れてしまい、常人のことを重く見ています。皆さんにとって、それは大法弟子の修煉の道から離れてしまったのではありませんか?」(『各地の説法十三』「二〇一五年ニューヨーク法会での説法」)と説かれました。
旧宇宙は私利私欲のためであり、真相を伝え衆生を救うことは他人のためであり、これが旧宇宙から新宇宙へ行く唯一の道なのです、という理を悟りました。その道中では、すべての衆生が救われるのを待っています。私が土壌であるとすれば、自我は木の根であり、円満成就への執着は木の幹であり、大小さまざまな執着は枝葉であり、この木が私の行く手を阻んでいます。 今、幹を押し倒し、根を耕し、邪魔な枝葉を取り除き、この土地を離れ未来に向かう唯一の道を踏み出しました。
私は間もなく、重くのしかかっていたものが消え、全身が軽くなっていることに気づきました。それらの根絶できない執着は、突然根を失い、バラバラになって消えていきました。私はまるで頭を取り替えられたかのように、どんな出来事に出会っても、真っ先に自然に人のことを考えることができるようになり、邪念を抑え切れない状態はなくなりました。
ある日、縁石の階段を下りていると、ふと口角が上がって、心が落ち着き、頭が空であることに気づきました。全く新しいすばらしい体験です。通りを見上げれば、せわしなく行き交う人々、青い空、緑の木々、以前とまるっきり違います。
師父ありがとうございます!
合掌