個人的な好き嫌いを捨て、理性的に修煉に取り組む
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2024年4月28日】数年前、私はコンピュータシステムをインストールすることを学びました。その後、技術フォーラムと常人サイトを通して、いくつかのコンピューターの知識を身につけました。このことは私自身に大きな便利さをもたらし、同時に同修たちを助けることもできるようになりました。

 私は相前後していくつかの同修に、中共のネット封鎖を突破して明慧ネットにアクセスする専用システムを設置しました。同修を助けてパソコンを購入したり、ハードウエアを交換してアップグレードをしたりしました。他の同修に明慧週刊などの資料に頼る同修に会うと、条件と能力を備えているならば、自分でインターネットにアクセスするように勧めました。また、他の同修との接触が少なく、明慧の資料をほとんど読まない同修もいて、私は彼らに明慧ネットにアクセスするように勧め、パソコンを操作し、システムをインストールしました。この過程で、師父は私に業力の借りを返済し、修煉を向上させる要素を整えてくださいました。

 一、技術で同修を助ける中で、悪の縁が解けた

 私は長い間、嫌いな人がいます。その同修は自分勝手で、倣慢で、狡猾で、欺瞞的だからです。彼女と関わる度に、私のことを嫉妬し、警戒していているので、彼女の意図はよく分かりましたので、彼女とは関わらないことにしました。

 ある日、この同修が私の家に来て、私にパソコンのシステムをインストールして欲しいと頼みました。これは私が予想していたことで、私は遠回しに断りました。実は、ドアを開けたくなかったのですが、どうして開けたか自分でも分かりませんでした。その後、彼女は自分でやってみましたが、うまくいかず、仕方なくまた私のところに来て、「お願いします」と言って、パソコンを置いて帰りました。私は彼女を相手にしませんでしたが、正面衝突は良くないと思い、仕方なくやってあげました。

 今度は、彼女は家にあった古いパソコンを持ってきて、私に修理を依頼しました。私は彼女に一言も言いたくなく、彼女の以前の自分勝手な行動を思い出すと、腹が立ちました。彼女は人を助けたり、協力したりすることはありませんが、自分に何かあると人に助けを求めます。このような人は、人の助けを得るべきではなく、困っている人の気持ちを理解するべきだと思っていましたが、徳を失いたくないので、怒りを抑えて修理してあげました。

 三度目に、彼女はなんと彼女の親戚のパソコンを持ってきて、私に修理をさせました。本当に我慢の限界で、「いい加減にしろ!」と言いたくなり、投げ出そうという気持ちになりました。

 実は、師父は私に3度も、恨みを捨てて同修を受け入れるようにと悟らせてくださいました。ある時、私は彼女のことに腹が立っていた時、師父は夢の中で、「包容することができれば、神々も感服する」と語られましたが、私はやはり乗り越えられず、彼女を嫌がっていました。

 彼女はいろんなことに協力してくれないし、いつも批判的な態度でした。そのため、私たち2人は互いに排斥し、嫉妬し、恨んでいました。それは前世の悪縁で、私が彼女に借りがあったかもしれません。「借りがあったら、返さなければならない。これ以上師父の苦心を無駄にしてはいけない!」と思い、私はすぐにパソコンを直して、彼女の知っている同修の家に届けました。

 師父は私が持っているこの技術を利用して、私たちの悪縁を解いてくださいました。実はこの業力を私は少ししか返していません。師父は私に、ある世に私は人を遣って、ある人のまぶたを切り裂き、その人をひどい目に遭わせたことを見せてくださいました。その後、私のまぶたが数日ぴくぴく動き、その業力を返済しました。大法を修煉したため、多くのことは師父が解決してくださいました。心から師父に感謝しています!

 今、冷静になって考えてみると、まさにこのような人に会うことで、自分の多くの問題を一気に暴露させることができました。この機会があったからこそ、私は自分の良くないところを見つけました。世の中の恩や恨みはすべて幻で、彼女の表現はすべて私に見せるもので、私は自分の心性を向上しなければならず、他人の問題を見ているばかりでは、修煉になりません。

 個人的な恨みの中に陥って、情緒を束縛され、自我を放下することができなければ、師父の按排に従うことができません。それは師父に協力して、師父を助けて法を正すことではありません。私たちはどんな時でも、法を第一にして、師父の按排を大切にしなければなりません。実は、それは自分に威徳を立てることでもあります。

 二、技術と自己への執着を放下する

 ある日、私はある同修のところに行きました。彼女はノートパソコンを持っていて、2、3カ月アップデートをダウンロードしていなかったので、私に「アップデートをしてほしい」と言いました。私は彼女に自分でやれるように、やり方を教えました。家に帰った後、私はふと彼女が交換する必要がある期限切れのソフトウェアがあったことを思い出しました。そして彼女のシステムは数年前に作ったもので、セキュリティの設定が現在の技術要件を満たしておらず、セキュリティホールがありました。それはネット封鎖を突破して明慧ネットにアクセスするもので、彼女が明慧ネットの同修の交流文章などを読んで、心性を向上することができればと思い、できるだけ早く処理してあげなければいけません。

 午前中に彼女の家に行ったばかりですが、夕方にもう一度行きました。私が彼女にパソコンをセットしてあげると言うと、彼女はすぐに同意しました。しかし、私が彼女に起動パスワードを書くように言った時、彼女は不審に思ったのか、すぐに後悔して「やらなくてもいいです。後で他の人にしてもらいます」と言いました。私は彼女に「ソフトウェアの有効期限が切れてセキュリティホールがあります」と説明しましたが、彼女はやはり「あなたを信用していないわけでもありませんが、今はセットしません」と言いました。実は、彼女は私を信用していないと分かっていたので、私はそのまま帰りました。

 帰り道、私の心は穏やかではありませんでした。自分の焦りと自己中心に対して反省し、恥ずかしく思いました。同時に、同修を少し恨んでいました。「私は遠くからわざわざ行ったのに、あなたはこんなに理不尽で、自分が賢いと思っていたかもしれない。パソコンのパスワードが、銀行の暗証番号でもないのに、私に教えて何か困ることでもあるのか?」と、まったく理解できませんでした。しかし、改めて考えてみると、「彼女はパソコンの知識がない上、私と知り合ってからの時間も短いため、疑いを持っているのもよく分かる。それに、経済的条件があまり良くない彼女にとって、パソコンは大切なものかもしれない。他人を理解しなければならない」と思い、少しずつ心が落ち着いてきました。

 それから私はまた自分のことを考えました。ここ数年、少し技術を身につけたことで、心のどこかにうぬぼれとおごりがありました。自分がどれだけの腕前を持っているかのように、いつも他人に自分の能力を実証しようと考えていました。実は私がこれらの技術を身につけることができたのは、すべて師父の手配と加持、そして同修の助けによるものです。自分も多少の時間と精力を払いましたが、得たものとは比例しません。自慢するどころか、感謝しなければなりません。私は大法のことをしていますが、その過程で少しずつ執着心が出てきて、時には執着心を持ってやっています。私は技術性のあることが好きで、達成感と他の人より優れている自分を証明するのが好きで、人を助ける時に、他の人が自分に対する崇拝、お世辞が好きです。そして大法のために何かをやったという心があり、技術を使うことで、直接人々に大法の良さと法輪功迫害の実態伝えることを避けています。パソコンの知識を学び、メンテナンスの技術を身につけるのは、同修のためであるべきで、私心を満たすためではありませんが、私は正反対でした。純粋で、正しい心ではない行いは有為であり、意図的ではなくても、知らず知らずに執着心を満たす機会を提供することになります。

 パソコンの技術を利用するのは、大法と修煉の必要のためであり、その必要がない時は、技術そのものに執着してはいけません。私の心は一気に晴れました! あのぷんぷんとしたものはすっかりなくなり、穏やかな心を取り戻し、何事もなかったかのように、「私」という概念もなくなり、「無為」の素晴らしさを感じました。修煉することは、本当に不思議なことです!

 三、個人的な好き嫌いを捨て、理性的に修煉に取り組む

 私の家では、昔から佛を信じ、仏像を供えており、占いや憑き物のある人に接したことがあります。私は小学生の時、『済公』や『西遊記』、『封神榜』という神話物語の本を読みました。中学校に入ってから、家族と一緒に気功をしたことがあり、世間で流行っている気功師や超能力などを紹介する気功の本を読んだこともあります。大法を修煉してから、私は多くの超常的な体験をしたことがあり、超常現象に興味があり、無意識のうちに何か超常的なことができないかと思っていました。大法を学ぶことには、修煉への憧れが大きいのですが、心の中には興味の要素がずっとありました。

 師父は「一部の学習者は法を実証する過程で人心を持って事を行なっており、それによって自分の歓喜心を満たしています」と説かれました。(『精進要旨』「すぐに目覚めよ」)

 ここで「歓喜心」という言葉が出てきました。自分のことを考えてみると、長年の修煉の中で、歓喜心が混ざっていて、情熱に頼って修煉していました。情熱がない時はだらだらしていて、要するに、学法は少なく、煉功も継続できず、正念が足りず、大法のことや迫害の実態を伝えることにも怠けたり、避けたりしていて、大法のプロジェクトをするには自分の好みに合わせていました。同修に対しても合わなければ遠く離れ、真の修煉者のように厳粛な気持ちで正しく向き合っていませんでした。

 時々私は、「自分はこんなに気を使わないで、修煉におけて『中士』であるしかないかもしれない。師父が私に10点をくださるとしても、私は5点ももらえないだろう」と思いました。当初の「興味」のおかげで私は簡単に大法の門に入ることができましたが、修めていないこの「興味」こそ、私の修煉の道を妨げています。

 しかし、本当にこの「興味」が私の大法の修煉を支えていたのだろうか。実は、大法弟子と師父、及び大法との縁は大昔から決まっていたのです。私は2度も夢の中で、自分が上界から降りてきたときの光景を見ました。それは大法を得るためでした。師父はまた、私が前世の中で、何度も師父と縁を結んできた情景や歴史を見せてくださいました。これらの縁はしっかりと私を導き、それに師父の長年のご加持のおかげで、私は今日まで修煉することができました。「興味」は私を大法に入らせた一つの要素ですが、根本的な原因ではありません。しかしその要素は、私が本当に向上する時にまた一種の障碍になり、それを取り除かなければならないのです。

 同時に私は、個人的な好き嫌いを超え、自分の感情を捨てて、法を正す角度に立って、最大限に師父が望まれたことを行うことこそ、大法弟子がすべきことであり、師父を助けて法を正すことだと分かりました。師父が手配された事をしっかり行うことができれば、大法弟子として多くのことを成し遂げることができます。これは私たちが感じられることですが、より多くの素晴らしさは、おそらくこの空間に現れていないため、私たちが現在見ることができないものです。

 ある朝、私の頭の中で「自然に従うとは何だろう? それはすべて神様が決めたことだから、その通りにすればいいのだ」という明確な認識が現れました。「そうだ、個人的な要因が加わると、神の按排に従っているのではなく、神の按排を破ってしまい、神の目的や私たちを成就させようとしているすべてのことが達成できなくなる可能性がある」と思いました。

 これから、私は真に精進し、しっかりと修煉した上で、さらに冷静で理性的に行い、法を正される師父を助けて衆生を救うことができればと思っています。

 (責任者編集者:李明)

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2024/4/23/475450.html)
 
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