文/中国の大法弟子
【明慧日本2024年7月10日】長い間、私には拭い去ることのできない執着がありました。大法の要求に則っていない同修を見ると、不快に感じたり、うんざりしたりしていました。時々、いつも接している同修と比較的に精進している同修を見ても、「頑固な執着がある」と感じることがありました。常人(修煉者でない家族も含む)と接するときは、私はその人にどんなに欠点があっても、たいていの場合、その人の欠点を見て自分もその欠点があるのではないかと探し、文句も言わないし、嫌になることもありません。しかし、同修に対して、どうしても寛容になれなかったのです。
最近、20年以上修煉している同修に出会いました。この古い大法弟子は、物事がうまくいかない時、いつも、「この人もダメ、あの人もダメ」と言い、すべて他人のせいにし、自分にはまったく非がないような言い方をしていました。病気の関を乗り越える最中にいる同修に対しても、このような態度でした。私は、「法はとても明確なのに、なぜ自分の内に向けて探さないのだろうか、古い大法弟子なのに」と、思ったりしました。
ある日、食事をしながら、明慧ラジオで「党文化を取り除く」という文章を聞きました。聞いているうちに、私ははっと悟りました。この党文化というものが、私にも同修にも隔てを作っていたのです。
なぜ私は同修に対して包容力がないのでしょうか? 「修煉者はよく修煉でできた部分がすでに切り離され、まだ正されていない人心や執着が残っている」と、私たちは法でわかっています。しかし、なぜこのような人心が現れるのでしょうか? 党文化の影響だと思います。
一つは、党文化の中では、「一貫して自分自身が正しい」のです。共産党は偉大、光明、正確だと自画自賛していて、伝統文化に見られる謙虚さがないのです。「修煉は常に内に向けて探し、自らを修めなければならない」という大法の要求から見ると、党文化ははるかにずれているのです。
第二に、党文化の中で、思想を統一する、認識を統一する、極端に走る、物事の多様性を無視するというものがあります。党文化は伝統的な文化である「君子は和して同ぜず」(協調することは大切だが道理に合わないと思うことは同調してはならない)という寛容な精神と違って、「異なる次元に異なる法あり」(『轉法輪』)なので修煉者の心性が異なる次元にあるという大法とも大きく違っています。
第三に、他者を強制するというのは党文化です。他人を高い基準で要求し、他人に押し付けます。私は、「何年も法を勉強しているのに、どうしてまだこんな執着があるのだろう」と、自分を責めました。私はいつも法を使って、同修を照らし、同修に要求します。実際、私たち修煉者は執着心がそれぞれで、早く悟れる人がいれば遅れて悟る人もいるのです。
いつも、すべて他人のせいにするその古い大法弟子は、法の学びを通して、「あの人と張り合ったりしない。私は心の中でもうその人を憎まなくなった」と、考えを改めたようです。しかし、この同修は結局、他人が悪いという前提で自分を探しているようです。 一方、私はこの同修をどう見ていたかと、振り返ってみると、まず同修が法に則っていないと思いました。同修の執着を見て自分はそのような執着があるかどうかを探し、「自分が傷つけられた。でも、耐えることができた、冷静に耐えることができた」と、自分の内に向けて探しているように見えますが、実はこの内に向けて探す方法は間違っています。というのは、私は、最初から他人が間違っていると判断し、外向きながら自分を探しているのであって、無条件に自分の内に向けて探すことではありませんでした。
考えてみてください。もし、師父がこの古い大法弟子の言動を通して、私を試しておられるのであれば、この試練に合格できなければ、私自身の執着の一面をさらけ出すことにもなります。それによって、私自身が内に向けて探して、この執着を捉まえ、それを取り除くことができれば、これこそ本当の向上になると思います。それなら、この同修の言動は本物ではないと思いませんか? それは師父が弟子の成就のために順序よく按排されたものだと思います。私が「この同修は法に従っていない」とか「この同修は私を傷つけた」とか、と言うのは事実ではないことになるのです。
実際、師父は説法ですでに私たちにご教示してくださいました。師父は「いくら不当な仕打ちを受けても、平然として対処し、心が動じることなく、自分のために言い訳をせず、多くの場合、弁解する必要もありません。なぜなら、修煉の道のりにはいかなる偶然なこともなく、話をしている中であなたを刺激したもの、トラブルの原因である利害関係は師父が作ったものかもしれません。相手の話は非常に刺激的かもしれませんが、あなたの痛いところに触れたから、刺激的だと感じたのです。本当に不当な扱いを受けたかもしれませんが、その話は必ずしもその人が言ったのではなく、私が言ったのかもしれません。そのとき、あなたがどのようにこれらのことに対処するのかを私は見ており、相手に口答えをしたら、実は私に口答えをしたことになります」(『各地での説法十』「マンハッタン説法」)と説かれました。
結び
同修のことを見ているとき、同修にはそれぞれ状態があり、(自分も含めて)皆それぞれ違った執着がある、法に対する認識が違う、先天的な要素、後天的に形成したものが違うなどと、考えるべきです。それぞれ違う状態の同修がいると理解すれば、包容力のある人になり、出会った人、見たものすべてに穏やかに対処することができるようになります。
すべては、師父が順序良く按排して下さり、弟子の業力を消し、弟子の体を浄化し、弟子の次元を向上させるためだと理解しています。修煉者にとって内に向けて探すことは最も有効な方法で上手に活用することができれば、「出会う人や物事は決して余計なものではなく、理解しがたいものの裏側に、自らの執着がある」とわかります。そこには、自らの深く隠れている執着を掘り出すものがあれば、自らの業力を解消するためのものもあります。師父が、弟子一人一人の状態に合わせて最善の按排をして下さったのです。
師父、感謝いたします!
以上、私自身の次元での浅い悟りですので、同修と切磋琢磨したくてこれを書きました。