「私は魔難に伴われつつ大きい車を御し」についての浅い悟り
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文/フロリダの大法弟子

 【明慧日本2024年8月22日】

 1.魔難に対する正しい態度

 「私は魔難に伴われつつ大きい車を御し」の一文(『洪吟三』「呼び覚ます」)を読むたびに、私の心には深い感動と励みを覚えます。28年の大法修煉を振り返ると、数え切れないほどの大小様々な魔難を経験しました。2年前から、私は魔難に対して全く異なる理解を持つようになりました。

 2020年1月、私と夫(同修)はレストランを購入し、商業用不動産の家主と5年間のリース契約を結びました。同年3月、米国でパンデミックが発生しました。政府のロックダウン、設備代金を受け取ったにもかかわらずキッチン設備を納品しない供給業者、建物の上階からの深刻な漏水を修理しない家主、などなどの事情で、営業できない状況が続きました。営業できないため、従業員を解雇せざるを得ませんでした。レストランが古すぎて排水管がひどく詰まり、汚水がキッチンに広がり、修理費用は4,000〜5,000ドルかかりました。レストランの空調設備が故障し、修理費用は4,000〜5,000ドルでした。営業できない期間中も、毎月家主に約6,000ドルの家賃を支払わなければなりませんでした。キッチンの冷凍庫が故障し、給湯システムも故障し、修理費用は約2,000ドルでした。レストランの営業は不調で、客はほとんどおらず、赤字が続き、チップを払わない客もよくいました。2021年11月、夫は製麺機に手を挟まれ、障害が残る程のケガを負ったため、レストランは完全に閉店しました。閉店後も、毎月家主に約6,000ドルの家賃を支払わなければなりませんでした。

 2000年から2002年にかけて労働教養所で迫害を受けた時期を除いて、この期間は私と夫にとって人生最大の魔難だったと言えます。その間、私と夫は極度の苦痛を感じ、これらの魔難がいつ終わるのか分かりませんでした。毎晩レストランから離れる道すがら、私たちはよく師父の「オーストラリアの学習者への説法」を聴き、無限の力を得て、魔難にどう正しく向き合うかを学びました。

 2022年初めのある日、私は『スイス法会での説法』を読みました。師父は次のように説かれています。「常人社会で楽に暮らし、何の災難もなく、毎日のんびりしていて、お金も十分あり、欲しいものも全て揃っていれば、人々は神が人に慈悲であり、やさしくしていると思っています。皆さんに教えますが、神はこのようなことをしません。もし本当にこのようなことをしたら、それはあなたにとって非常に良くないのです」

 師父の法は私の心に大きな衝撃を与え、修煉の中で遭遇するどんな良いこと、悪いことも、すべて良いことだと分かりました。

 法を学び続け、心性を高め続けるにつれて、ついに2022年4月、この人生最大の関を乗り越えました。数か月後、師父は夢の中で私に悟らせ、これらすべての出来事の背後にある因縁関係を理解させてくださいました。

 修煉中に遭遇するいくつかの魔難について

 魔難その1 法を乱す者の惑わし

 中国本土の労働教養所や刑務所で迫害を受けた同修は皆知っていますが、労働教養所で邪に悟った同修の中には、残酷な拷問に耐えられなかったわけではない人もいます。邪悪は根本的な執着を持って法を学びに来た学習者を標的にし、もっともらしい歪んだ理論や邪説をたくさん作りました。これらは、法の学習が浅く、根本的な執着を手放せない学習者にとって非常に惑わしいものでした。

 ここまで話すと、海外の学習者は安堵したかもしれません。海外には労働教養所がないから大丈夫だと思うかもしれません。しかし、本当にそうでしょうか?

 ここ数年、海外の中国語ソーシャルメディア(他の言語のソーシャルメディアでも同様の現象があるかどうかは分かりません)で、邪悪な風潮が現れました。最初は中国本土から来た、いわゆる法輪功学習者でした。この人物は一般には高学歴で、中国本土の刑務所に10年間拘留されたと主張していました(実際、彼を知る大法弟子によれば、3か月で邪悪に転向したそうです)。彼はまずソーシャルメディア上で大法弟子と明慧ネットを公然と批判し、個々の学習者の法に適合しない行為を捉えて、一点を誇張し全体を無視するように攻撃し、まるで大法弟子に取り柄がなく、すべてが悪いかのように描きました。さらに、法の中で一般の人々が理解しにくい部分を捉え、文脈から切り離して解釈し、法の学習が浅く常人の心が重い学習者を惑わしました。さらに大法と師父を中傷し、完全に法に対立する立場に立っていました。

 中国本土の労働教養所は、しばしば高学歴者や大法弟子の中で影響力のある世話人などを重点的に転向させた後、他の大法弟子を転向のために利用しました。この人物の法を破壊する手段と過程を振り返ってみると、それらは中国本土の労働教養所が大法弟子を迫害する手法と極めて似ており、作り上げた歪んだ理論や邪説も同じようなものでした。

 師父はおっしゃいました。「いわゆる転向させられた人は、歴史上、このように法を迫害するよう按排されたのです。その人が以前つかまえられ、殴られたときに、いくらしっかり行なえていたにしても、すべては、その人が今現れてきて法を迫害し、学習者を惑わすために準備されたのです。学習者は、それらの邪悪な虚言を信じないでください。これはわたしが意図的にそれらを暴露させており、皆さんに彼らのことをはっきりと認識させ、弟子の中からこれらの隠れている毒を排除しているのです」(『精進要旨二』「邪悪を窒息させる」)

 これらを理解すれば、現在海外のソーシャルメディアに現れているこの種の邪悪な風潮を見分けるのは難しくありません。実際、この種の海外における「壁のない労働教養所」はより危険です。それは目に見えない労働教養所であり、学習者はより警戒しにくく、より見分けにくいのです。これらの事が起こり始めた当初、多くの学習者が惑わされ、その人物の言うことに道理があると思い込みました。その人物が公然と師父と大法に反対し始めてようやく目覚めたのです。さらに恐ろしいのは、今でも極めて少数の人々が彼に惑わされ、完全に大法と対立する立場に立っていることです。これは彼らの修煉の道における劫難なのです。

 魔難その2 自分の心より魔が生じること

 米国に来る前、ある時期、同修の間で私を褒める人が多くいました。私はあまり気にしていませんでしたが、後になってどんどん調子に乗っていくのに気づき、すぐに警戒し、慎重に内に向かって探したところ、これらはすべて自分の名を求める心を消していないがために引き起こされたものだと分かりました。まさに私に名を求める心があったため、これらの褒め言葉を喜んで受け入れ、絶えず人々が私を褒めに来たのです。危険でした。このまま続けていたら、「自分の心より魔が生じる」に発展していたかもしれません。

 これらの道理を理解した後、私はすぐにこれらの執着を手放し、徐々に同修から褒められることも少なくなりました。修煉を続けるにつれて、私は深く感じました。真の修煉者として、修煉すればするほど自分の小ささを感じ、修煉すればするほど師父の偉大さ、法の偉大さを感じるのです。

 魔難その3 闘争心

 ある時期、夫(同修)から大きな誤解を受けました。彼は、私が彼の修煉を妨害する魔だと言いました。これは冗談ではなく、彼は本当にそう思っていました。私は極度の苦痛、怒り、屈辱、恨みを感じました。最も受け入れられなかったのは、私のことをそう言ったのが夫であり、同修だったことです。約2〜3年の間、彼のこれらの発言のために、私は彼と口論し、喧嘩し、刃物や銃を使わなかっただけでした。

 ある時、明慧ネットで同修の修煉体験を読みました。ある同修が労働教養所に連行され、正念正行で転向せず、刑期を終えて釈放されましたが、ある同修からスパイだと言われました。その理由は、もし彼が転向していなければ、どうして予定通りに釈放されたのかというものでした。この噂は町中に広まり、町中の同修が彼を避けるようになりました。このような魔難に直面し、この同修は極度の苦痛と屈辱を感じましたが、やはり修煉者なので、絶えず内に向かって探し、執着を手放し、徐々にこれらのことを軽く見るようになりました。これらの執着心を手放した後、師父は夢の中で彼にこの同修との因縁関係を見せてくださいました。かつてある世で、この同修は裁判官で、彼のことを噂した同修は、かつて彼が冤罪で裁いた人でした。そして、その冤罪判決によって命を落としたのでした。

 この話は私に大きな啓発を与えました。私は夫である同修が私をこのように扱う理由が分からなかったところから、徐々に理解するようになりました。おそらく私は前世で彼に大きな屈辱を与えたのかもしれません。今生今世で遭遇するすべてのことは、偶然ではないのです。そのため、私は初めて師父の言葉を理解しました。「正しきは彼 間違いは私 何を争ふものか」(「洪吟三」「誰が是 誰が非」)

 以前は、なぜ正しいのが彼で、間違っているのがいつも私なのか理解できませんでした。今、私はようやく理解しました。この世のすべてのことには因縁関係があります。この世でどんなに大きな屈辱や不公平に遭遇したとしても、今生今世ではあなたに過ちがなくても、前世では過ちを犯したかもしれません。だからこそ、争うことは何もないのです。

 魔難その4 情に対する関

 修煉の中で、2003年から2019年まで十数年にわたって情の関を乗り越えてきたように感じます。以前の彼氏から現在の夫まで、これらの感情的な葛藤が過ぎ去るたびに、師父はこれらの関係の背後にある因縁関係を私に示してくださいました。

 同修の中によく見られる現象として、家庭外の環境では自分を修煉できるのに、家庭環境に入るとなかなか自分を修煉できず、彼は私の夫だから、または彼女は私の妻だから、彼(もしくは彼女)は私にこうあるべきだ、あああるべきだと考えてしまいます。

 しかし、それはどうして可能でしょうか? 修煉者がこの世に来たのは修煉のためです。家庭は師父が手配してくださった重要な修煉環境の一つです。修煉の環境に魔難がないはずがありません。もし家庭環境で自分を修煉できなければ、それは非常に重要な環境で修煉できていないということになりませんか? もし私たちが一生涯家庭環境で修煉できなければ、円満成就できるでしょうか?

 一部の同修の家庭環境はとても良く、和気あいあいとしています。常人から見れば、もちろんこれは良いことです。しかし修煉者から見れば、もしあなたがこの環境で修煉して、情を取り除くことができず、むしろ情に陥って抜け出せず、一生そのままだったら、結局のところ修煉していないことになりませんか?

 魔難その5 利益への執着心

 かつて中国古代の予言書を読んだことがあります。その中で、修煉者が円満成就する前に必ず通過しなければならないいくつかの大きな関について述べられており、利益に関する関が最後の関として挙げられ、最も乗り越えるのが難しい関とされていました。もちろん、この本を法と同等に扱うことはできませんが、本に描かれているいくつかの比喩的な物語は修煉者にとって一定の啓発的な意義があります。

 本の中にこんな場面があります。ある修煉者が「金銭の迷魂陣」にやってきました。お金は世の人々の生活の源であるため、誰もがそれを愛します。この人が陣に入ると、あまりにも素晴らしく、家は豪華で立派な構えで、屋内のあらゆる器物は極めて精巧です。高級な衣服を纏い、食べるものは山海の珍味、家には妻がいて、妾も多く、子孫に満ち、使用人が雲のように集まっています。彼は生活を楽しみ始め、いつの間にか子孫が成長し、さらに子孫の結婚に忙しくなり、気がつけば八十歳になり、髪が白くなっていました。突然、自分は本来修煉するはずだったことを思い出しましたが、時すでに遅く、もう抜け出すことはできず、最後にこの「金銭陣」の中に閉じ込められて、死んでしまいました。

 本の中では「金銭陣」の贅沢な生活が非常に詳細に描かれています。私が最初にこの本を読んだときは理解できず、これがどんな魔難なのか、これは人間の普通の素晴らしい生活ではないかと思いました。

 自分の修煉が進むにつれて、徐々に悟りました。これはまさに「ゆでガエル」のような魔難です。修煉者が徐々に常人の生活に迷い込み、金銭、家、物品、衣食、妻、子孫のことに忙しくなり、自分が修煉者であることを忘れ、自分の使命を忘れ、最後には徐々に修煉しなくなり、三つのことをしなくなります。そうなれば、最後に円満成就できるでしょうか? 師父について天国世界の家に戻ることができるでしょうか?

 以上は個人的な修煉の体験の一部です。不適切な点があれば、同修の慈悲深いご指摘をお願いいたします。

 (2024年米国フロリダ法会での発表原稿より抜粋)

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2024/8/5/480478.html)
 
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