真の「心が動じず」を体験
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文/中国大法弟子  

 【明慧日本2023年8月28日】私は1998年末、7歳くらいの時に両親と一緒に法輪大法を修煉し始めました。大法を修煉した後、両親はすべての病気が治り、病気から解放され、法輪大法の素晴らしさと幸福を本当に体験しました。

 しかし、1999年7月20日、当時の中国共産党(以下、中共)の指導者であった江沢民は、些細な嫉妬から法輪大法への迫害を開始しました。私の両親は、真・善・忍の信念を捨てなかったため、何度も中共から嫌がらせや迫害を受け、結局、私たち家族は2004年に故郷を離れることを余儀なくされ、転々とした生活を始めました。当時、私はまだ中学1年の前半も終わっていませんでした。

 ある時、何かをしていた時にふと思い出したのですが、師父はいつも修煉者に、どんな矛盾や状況でも内側に目を向け、自分自身を修め、動じないようにと言われました。師父の像を見ながら、心の中でこう問いかけました「師父、動じないとはどんな感じですか、それはどのような状態ですか」そこまで考え、その後は何も考えずに仕事を続けました。

 するとその夜、慈悲なる師父は夢の中で、心の底から「動じない」とはどういうことかを体験させて下さいました。夢の中の「親」(変化したものと思う)に色々と責められ、表情も険しかったのを覚えていますが、これが普段なら絶対に受け入れられず、反論しなければなりません。しかし、夢の中の「私」は意外にも動じず、何の不満や怒りなどの感情も抱いていませんでした。まるで非難や侮辱が自分とは何の関係もないかのような、並外れた、本物の、心からの平穏、平和なのです。そして、普段の自分なら、この状況では「動じない」ことができないこともよく知っています。

 目が覚めたとき、あの感覚をまだ覚えていました。あの穏やかで、平和で、動じない感覚は本当にすばらしかったです。こんな感覚は今まで経験したことがない、言葉では言い表せないほど気持ちが良いのです。この出来事は私に大きな感動を与えました。弟子を啓蒙してくださった慈悲深く偉大な師父に感謝します。

 「忍耐」に関する2つの出来事

 修煉を始めた当初、私はいつも自分に言い聞かせていました。「我慢しなければならない、たとえ内心では、とても怒っていて憤慨していたとしても、本当にできないのであれば、まず話さず、耐えることを学ばなければならないのです」。その後、私は徐々に忍耐に慣れ、心の中でそれを手放し、心の底から本当に忍耐し、つまり動じないことを達成しました。

 私はいつも、師父の言葉を忘れてはいけないと自分に言い聞かせています。「強辯に遇えば、争論す勿れ 内に向けて因を求むは修煉 釈明しようとすればするほど心重し 坦懐にて執着無ければ、知見出づ」[1]。

 一つ目の出来事。ある時、些細なことで、最初は自分を抑えきれず、父(同修)と口論になったことがありました。でも、すぐこのままではいけない、自分を修めなきゃいけないと思い、我慢しました。それから内側に目を向け、非を探すと、徐々に落ち着いてきました。でも父はまだ怒っていて、私と話したがらないのです。私は即座に、父の姿を通して自分自身を見つめました。それは、かつて葛藤を抱えていたとき、自分を修めるのに、内側に目を向けなかったときとまったく同じで、ずっと、内側に目を向けず争っているときの自分がこんなに醜いことなのかが分かりました。一瞬にして目が覚め、自分自身にこう言い聞かせました「そういう自分の様子を見て、本当に間違っています。まだ憤りを感じ、自分が正しいと思い、本当によくない、だめです」。当時、内側に目を向け、自分を修め、心性を向上させる感覚は本当に美しく、心地よかったです。

 二つ目の出来事。今回も私は忍耐を達成し、心性が向上して心身共に昇華しました。私たちは借家に住んで不安定な生活をしているので、安全のために何をする時もより慎重にならなければなりません。父は、向かいの建物の住人に見られるのではないかと心配しているため、暗い場所でのコンピューター画面の明るさを常に気にしていました。

 その日は曇りで、父とパソコン作業していたので、父は画面を暗くしましたが、私の画面がまだ通常の明るさであるのを見て、父は非常に腹を立てて、画面を暗くするよう、私に言いました。以前だったら、きっと父と口論していましたが、その時は堪えて「どうしてまだ我慢できないの、まだ自分を修めることができないの」と自分に問いかけました。そして自分に警告しました「今回は自分を修め、我慢し、心を動かさないようにしなければならない」。それで今回は、最初から本当に心が動じず、穏やかで平和な気持ちでした。心性を向上させた後の感覚は、本当に心が広く、美しく、快適で、その美しさは言葉では言い表せないのです。結局、我慢できないとか、乗り越えられないなど、他人との間に問題があるのではなく、ただ、自分自身と敵対していたのです。

 その後、心性を高めた私は、この素晴らしい感覚を同修の父親と分かち合いました。しかし、父は「私も同じような状況にあったときは我慢したが、あなたが言うようなことは感じなかった」と話しました。私は父に「それは心からの忍耐ではなく、表面上の忍耐だからです。内心では我慢できなかったのではないか、なので当然、それを感じることはできません」父は聞いた後うなずきました。

 師父は「忍とは心性を高める鍵です。怒り恨むこと、不平、涙をたたえて忍ぶことは常人が世間体に執着する忍です。まったく怒り恨むことがなく、不平に思わないことこそ修煉者の忍なのです」[2]と説かれています。

 師父の慈悲深い救いに改めて感謝します。

 注:
 [1] 李洪志師父の詩:『洪吟三』「辯少なしに」
 [2] 李洪志師父の経文:『精進要旨』「忍とは何か」

 (責任編集-李明)

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/8/12/464067.html)
 
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