「良いことも悪いことも、いずれも良いこと」についての悟り
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 【明慧日本2023年9月2日】修煉の中、葛藤、不平、悩み、病業、魔難など様々な妨害に遭遇するたびに、特に自分がしばらく精進できていないと思っていたとき、師父のこの説法の一文がいつも頭に浮かびます。「あなたが思っている如何に大きな魔難にしても、苦痛にしても、いずれも良いことです。それはあなたが修煉したから現れたことです」[1]。

 しかし、自分が精進していると感じたとき、突然関門、魔難が現れて、一時的にわけが分からず、さらに時には関門を乗り越える期間が少し長くなると、「私は三つのことはいろいろな面でよくやっているのに、どうしてこんなことになるのか」という考えが浮かんでしまいました。

 「それはあなたが衆生を救い済度するためであっても、法を実証するためであっても、または個人の修煉の向上のためであっても、魔難は同じです。あなたが大法のために何かを行なっているから、衆生を救い済度するために何かを行なっているからといって、魔難が来なくなるというわけではありません」[1]

 今日、この説法を拝読している時、私は今初めて見たような気がして(今まで何度も拝読したことがあったが)、ふと理解できて、もともと良いことをしても各種の妨害、魔難、苦痛も現れ、これらのすべては師父が弟子たちを向上させるためなのです。「修行の路は苦くに非ず、生々世々の業力が阻む」[2]を思い出しました。

 何千年も輪廻して、どれだけの業を積んできたか分かりませんが、常人にとっては、業力が大きく徳が少ないのであれば、苦しみ、疲れ、魔難、貧困などのことが多いのです。業力が少ないのであれば、豊かになり、魔難が少なく、順調に過ごせるのです。業力が大きい修煉者にとって、修煉の中では、関門、魔難も大きくなります。

 以前、これらの説法に対してすばやく読んだだけで、表面的な理解に限られ、あまり心に入っていませんでしたが、今日ここまで読んで、突然「良いことも悪いことも良いこと」という法理に新しい理解ができました。修煉を選んだので、何事も修煉者の基準で物事を見て、常人の観念で測らなければ、良いことです。考え方が単純で純粋で、誰に対しても慈悲の心を持っていれば、全て師父が加持してくださいます。

 これは現段階で個人の法に対する理解、認識であり、不適切なところがあればご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『各地での説法八』「二〇〇八年ニューヨーク法会での説法」
 [2] 李洪志師父の詩:『洪吟』「因果」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/8/23/464505.html)
 
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