海岳神君と霊鳳の真念が閉じ込められた空間から精進について語る
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2024年9月24日】今日はまた『帰真』という映画を見直しました。実は最初にこの映画を見たときに、すでに海岳神君の真念が心の鎖によって閉じ込められた空間があることに気づいていました。一年前、私が眠っているときに、私の主元神はその空間に行ったことがありました。

 その時、私はとても狭い通路の真ん中を歩いていました。両側には映画の中で海岳神君と霊鳳の真念が閉じ込められていた空間と同じような光景が広がっていて、多くの同修たちが目を閉じて足を組み、動かずに座っていました。違いは、私が行ったその空間は周りが暗く、同修たちの前には非常に醜い悪魔がいて、牙を剥き出しにしながら何かを喋って同修たちの真念を惑わしていることでした。そして、その惑わされた同修たちは愚かでぼんやりした表情を浮かべていました。

 その時、私は多くの知り合いの同修を見かけました。その中の一人は人間界では修煉に対して消極的で、世俗の名利や情に迷って抜け出せない状態でした。彼女の前にも小さな鬼がいて、彼女は愚かな様子を見せ、頭をぐらつかせていました。私は走って行って、彼女を必死に揺さぶり、目を覚まそうと叫びましたが、効果はありませんでした。その空間にいたとき、私はとても無力で、その場所がどこなのかは分からなかったのですが、非常に悲しい気持ちになりました。

 映画を見終わってから、私はそれが大法弟子の真念の空間だと気づきました。そして、そのことを知り合いの同修に伝えました。何人かはそれを聞いて、もっと精進しなければならないと思うようになり、もう世俗に溺れることはできないと感じました。彼女たちの精進の道のりは決して簡単ではありませんでしたが、この半年間、彼女たちは学法を強化し、以前とは見違えるほど大きく進歩しました。しかし、話を聞いても気に留めず、依然として精進しない同修もいました。それでも、私は彼女たちが再び精進するように諦めずに説得を続けます。

 映画の中で、海岳神君が最終的に魔道に落ちて消滅したのを見たとき、とても悲しく、痛ましい気持ちになりました。きっと師父はもっと心を痛めていると思います。なぜなら、師父の慈悲は一人でも多くの命を救いたいと願っているからです。ましてや、それが修煉者であればなおさらです。また、私がその空間を見ることができたのは、師父が私に彼らを目覚めさせるように導いてくださっているからだと思いました。そして、彼らを目覚めさせることができるのは、ただこの人間界の空間においてのみです。

 この体験を通じて、より多くの同修が自分自身を見つめ直し、本当に精進しているのかどうかを考えてほしいと思います。時間はもうあまり残されていません。これ以上、無駄に過ごしてはいけません。修煉の過程で、些細なことだと思っていることが、実は他の空間では大きな問題となっていることがよくあります。

 例えば、私は幼い頃からお菓子が好きでした。昨年、師父は何度も私にその食欲を捨てるように悟らせてくださいました。それで私はかなり乗り越えたと感じています。以前は毎日お菓子を食べていましたが、今では1か月に1、2回しか食べません。先日、家に3袋のお菓子があり、我慢できずに一度食べようと思ったのですが、その夜、別の空間で家に3匹の蝉がいるのを見ました。目覚めてから蝉(中国語の発音はchan)と「饞(貪欲、中国語の発音はchan)」が同じ音であることに気づき、師父が私に食欲を完全に捨てるように啓示してくださっているのだと悟りました。少しの執着心も残してはいけないのです。

 よく、ある同修が「あなたは執着を捨てるのが極端すぎるのでは? 一部の執着心はそこまで徹底的に捨てる必要はない。私たちは常人の中で生活しているのだから、常人の生活に合うように少しは残しておくべきだ」と言います。しかし、彼らが知らないのは、私が自分の執着心の大小を問わず厳格に扱うのは、師父が様々な方法で私に気づかせてくださるからです。修煉においては、どんな小さなことでも高次元への鍵であり、何一つ見過ごすべきではありません。加えて、同修が言っていることは、ただ自分が執着を捨てたくない理由を探しているだけだと思います。私たちは自ら進んで執着心を残しておいて、常人の生活に合わせるべきではありません。それは本末転倒です。

 師父は「修煉に漏れがないとはどういうことでしょうか? 小さいことはありません」(『各地での説法十三』「二〇一五年米国西部法会での説法」)とおっしゃいました。

 しかし、多くの人は日常の些細な「小さな執着」を重要視せず、気に留めないことがあります。そして、そうした執着は温水に浸かったカエルのように、同修を迷わせ、精進できなくさせてしまいます。

 例えば、ある同修は小さな利益に執着し、廃品回収や割引品を買うことにこだわっています。また、ネットショッピングに夢中になり、スマホで商品を選ぶのに大量の時間と精力を費やしています。さらに、ある同修はサプリメントに執着し、サプリメントは薬ではないから師父の規定には違反していないと言います。このように、同修たちはこれらの様々な「些細な事柄」に執着し、それらを軽視しているのです。毎日ぼんやりと三つのことを義務のようにこなし、執着心は一つも手放さない。それでいて、自分はよく修煉できていて、かなり精進していると思っています。知らないのですか、千里の堤が蟻の穴によって崩れることを? 修煉も同じであり、非常に慎重に取り組まなければならないのです。

 私たちの地域では、多くの同修がまだWeChat(ウィーチャット)を使い続けています。彼らは様々な言い訳をします。家族に責められるのが怖い、仕事を失うのが怖い、顧客と連絡が取れず、収入が得られなくなるのが怖いなどです。私は、師父が大学院生が小さな白ネズミを殺さないために学業を諦めた話をしてくださったのを覚えています。もし、私たちがすべての事柄において大法を第一に置き、自分の利益を第一にしなければ、師父が言われた通りに従い、その道を進むことができるでしょう。それこそが本当に自己を放下し、法に溶け込むことだと思います。

 師父は「学習者として、師父の要求に従って行なっていなければ、これは小さな問題ではないはずです。旧勢力はすべての大法弟子に対してそれらのものを按排しました。もし大法弟子が師父の要求に従って行なっていなければ、きっと旧勢力の按排に従って行なってしまったことになります」(『精進要旨三』「考えをはっきりせよ」)とおっしゃいました。

 今の中国各地で天災が頻繁に発生しているのを見ると、時間は本当に残り少ないことが分かります。修煉においては、どんなに小さなことでも真剣に取り組むべきです。最後の時に、常に警戒を怠らず、最後の最後で失敗しないようにしなければなりません。さもないと、後悔しても遅いのです。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2024/5/22/477782.html)
 
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