執着心の排除と取り残しについて
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ーー同修の文章から思ったこと

文/中国の大法弟子

 【明慧日本2024年7月16日】2024年5月22日、明慧ネットに掲載された「海岳神君と霊鳳の真念が閉じ込められた空間から精進を語る」を読んで、その中の下記の一段が目に留まりました。

 「同修の中には『あなたは執着に対してあまりにも極端になっていませんか? ある程度の執着心は取らなくても良いのではないでしょうか。結局、私たちは常人の中で生活しているのだから、常人の生活に合わせるために多少は残しておいた方がいいですよ』と言う人がいます。しかし、私は自分の大きな執着も小さな執着も同じように厳しく対処しています。それは師父が私に、修煉中のどんな小さな事も、次元を高めるためのものであり、決して放置してはいけないということを、さまざまな方法で気づかせてくださったからです。私は同修が言ったその言葉は、執着を手放したくないための言い訳に過ぎないと思います。自ら進んで執着心を残して常人の生活に合わせるのなら、それは本末転倒ではありませんか?」

 私はこの作者の言葉に非常に共感し、作者の意見に賛同します。また、記事に登場する一部の同修の言う「常人の生活に合わせるために、多少の執着心は残しておくべきだ」という誤った観念について、完全に説明されていないとも感じました。もしこの言葉が新しい学習者によるものなら、法を理解する過程に過ぎないので仕方ありませんが、もし古い学習者が今でもこのような観念を抱いているのなら、それは非常によくないことであり危険です。

 「7.20」を経験した大法弟子はみな知っていますが、迫害が始まった当初、一部の邪に悟った人々が自分を弁護する理由として『轉法輪』の中の「われわれの法門では、常人の中で修煉する部分があって、常人社会に身を置きながら修煉し、最大限に常人と一致を保つよう求めているのであって、物質的利益において本当に何かを失わせるのではありません」の一節を持ち出して「最大限に常人と一致を保つようにしている」と弁解しました。なぜこのような誤った認識が生じたのでしょうか? 故意に間違った認識へ誘導するものを除き、このことを明確に理解できていない人は、人間の基準で法を理解し、人間の認識に固執し、法に同化する過程で真に修煉者の基準に達することができていないためです。

 実際、字面から言うと、法で言われる「常人と一致を保つよう」にするのは「常人社会の中で修煉する」ことを指しており、善悪正邪を区別しないことや修煉を放棄することを意味するものではありません。歴史上、これまでのどの修煉方式も「常人社会の中で修煉し、最大限に常人と一致を保つようにする」と敢えて言ったことはありませんでした。これはまさに大法の無限の法力であり、世間における一つの現れではありませんか? 法輪大法は法が大きいため、常人社会の中で修煉することができます。出家や寺院に入ることも山に籠ることもせず、世間から隔離される必要もなく、常人社会の中で生活しながら執着心や常人の観念を取り除き、神へと歩んで行けるのです。なぜなら、大法の修煉は人心を直接指し示すからです。

 もし邪悪に転じてしまい、修煉をやめてしまったなら、それはもう大法の修煉者ではなく、常人です。それなら「常人と一致を保つよう」に修煉するなどと、どうして言えるでしょうか?

 師父は多くの説法で、修煉における「常人の生活に合わせるために多少の執着心を残す」という問題について学習者に解答されています。これらの説法から明らかにわかるのは、修煉の過程で師父が私たちに常人の中で生活するための多少の人心を残してくださるのは、法の現れであるということです。これは、大法修煉者が執着心を取り除くために、どれだけ厳しく自分に要求しても、異なる次元に達した後でも、世間で人心を完全に無くした状態にはならないということだと、私は理解しています。なぜなら、法は修煉者に常人の中で生活するための多少の人心を残してくれているからです。

 これこそが法の現れであり、自分勝手にどれだけの執着心を残すかを決めることではありません。

 師父は真に修煉する弟子に法を説いておられ、私たちが悟るべきは法理です。真に修煉する弟子は実際に修煉する過程で、この法理の現れを自分自身で体験するのです。しかし、自らある程度の執着心を残してもよいと考えることは、人心で法を理解し、法を曲解することになり、これは修煉の基準を自ら変えることに等しいのです。このような認識を持つことは、真に修煉できていないことを意味し、法の現れについて語ることはできません。

 個人的な理解として、執着心を取り除く個人修煉において、師父は「漏れがない」ことを要求しておられます。

 師父は「修煉に漏れがないとはどういうことでしょうか? 小さいことはありません」とおっしゃっています(『各地での説法十三』「二〇一五年米国西部法会での説法」)。

 個人が執着心を取り除く過程で、一時的にまたはある期間に修煉の要求に達しないことは、個人の精進の程度の問題です。しかし、これを理由に修煉の要求を曲解してしまうと、それは法から外れることになり非常に危険です。このことは非常に重視しなければなりません。

 以上は、現在の私の認識の一部です。不適切な点があれば、同修の皆さまに慈悲なるご指摘をいただければ幸いです。ありがとうございます。

 合掌

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2024/6/14/478665.html)
 
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