【神伝文化】寛容で責任を尽くす
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 【明慧日本2024年10月6日】人と接するには寛大で度量を大きくし、私怨を考えない、このようにすることで恨みを回避し解消することができます。これは感心させられる宰相(さいしょう:総理大臣・首相)の度量です。職務を全うし、尽力して直言し、政事の誤りを正すことは、役人の務めです。明朝の楊士奇(ようしき)はこのような度量と才能があった人です。彼は泰和の出身で、少師(東宮学士の別称)を歴任し、王朝の有名な大臣です。

 完璧な人間なんていませんので、誰が少しの過失もなく過ごせますか。楊士奇は、他人の小さな過ちを許す心で接し、かつて自分を誹謗した人さえも寛容に接するので、宰相の度量があったと言えるのでしょう。

 楊士奇が左諭徳に在職していた時、当時の広東布政使徐奇が持ち帰った多くの嶺南の土産物が朝廷の大臣に送られました。誰かが、皇帝に、土産物を送られた大臣の名簿を献上しました。皇帝はそこに楊士奇の名前だけが載っていないのを見て、楊士奇を呼びました。楊士奇は「徐奇が広東に行った時、諸大臣は詩や文章を書いて見送りましたが、私は病気で参加しなかったので、名簿上には私の名前だけがありませんでした。大臣の方々が受け取ったかどうかは分かりませんし、贈り物は軽微なものですから、他意はないと思います」と述べました。皇帝は急いで名簿を燃やさせました。

 楊士奇は楊栄と共に内閣の大臣であり、楊栄は辺境を守る才能がありますが、しばしば贈り物を受けていました。皇帝がそのことをよく知っていたので、楊士奇に尋ねたところ、楊士奇は「楊栄は辺境の事に精通しています。閣僚などは彼ほど優秀ではない、些細な問題で口うるさく言うべきではありません」。皇帝は笑って問ました。「楊栄があなたと夏原吉の短所を暴いたのに、あなたはまだ彼のためを思っているのですか」楊士奇は答えました「陛下が臣を寛大に接するように楊栄を寛大に接することができることを願います」。皇帝の怒りはこれでおさまりました。楊栄は後に楊士奇のこの話を聞いて、自分が楊士奇に申し訳ないと感じて、それ以来二人はとても仲良くなりました。

 政事を正す面では、多くの大臣は損得ばかり考えてしまい、本当のことを言う勇気がなくて、楊士奇は忠義を尽くし、いつも直言して諫(いさ)めることができ、皇帝から深く頼りにされています。 ここにいくつかの例があります。

 楊士奇が少傅を務めていた時、群臣が正月一日の巡礼と祝賀の儀式を練習していました。呂震は音楽を使うことを提案しましたが、楊士奇は儀式や法律にそぐわないと思い、上書して制止しました。皇帝の返事がないので、楊士奇は庭で夜遅くまで待っていました。そこで、皇帝はやっと彼の意見に同意すると答えました。後に王は楊士奇に言いました。「呂震はあらゆる問題で私を手遅れにした。あなたが上書しなければ、後悔しても間に合わない」。それで杨士奇は兵部尚書に任命され、同時に3つの役職の俸給を受け取りましたがその後尚書の俸給をやめました。 

 皇帝が国事を代行していた時、御史舒仲成を恨み、罪を与えようとすると、楊士奇は「陛下は即位して、過去に皇帝の意志に背いた者は許すという勅令(ちょくれい:天皇・皇帝・国王などの君主が直接発する命令・法令のこと)を出しました。 もし舒仲成を罰したら、勅令は信用を失い、もっと多くの人が怖がるでしょう。漢の景帝が衛綰を善く遇したようにするのがよいのではないか?」 皇帝はすぐに考えを変え、彼を罰しませんでした。

 大理寺卿虞謙が事を議論して機密を守らないと言う人もいました。皇帝は怒り、彼を下級に降格させました。楊士奇は彼を弁護し、元の役職に戻しました。 楊士奇は「虞謙は皇上の詔勅に応じて自分の意見を陳述しました。もし彼が有罪になれば、すべての大臣がこれ以後発言する勇気がなくなるでしょう。 皇帝は直ちに虞謙を副都御史に昇進させ、勅令を出して過ちを認めました。

 その時、誰かが天下泰平を賛美する書簡を書いたので、皇帝はそれを大臣たちに見せたところ、皆はその通りだと思っていましたが、楊士奇だけは実際の状況はそうではなく、流浪の人々はまだ多く、国民の生活はまだまだ大変だと考えていました。皇帝は 「その通りだ 」と言い、そして大臣たちを振り返り「私は最大限の誠意をもってあなた方に接し、匡救(きょうきゅう:悪を正し、危険などから救うこと)を得ることを望んでいる。 楊士奇だけが5回も上奏したが、あなた方は一言も言わなかった。はたして朝廷の政事に誤りがなく、天下平和だというのは本当だろうか?」と言いました。諸大臣は慚愧して謝罪しました。

 その後、皇帝は楊士奇に詔書を与えました。詔書には「昔、私は国事の代理を命ぜられ時、あなたは周りに仕え、一心同体で、国のために、自分の命を捧げ、何度も苦難と危険を経て、決して自分の志を変えなかった。私が王位を継いで以来、良い提案があれば宮に入って上奏し、私に国を治めることを期待し、貞操を守り屈服せず二心がないことは、私の心に刻まれている。今「楊貞」と書いた印章を与え、引き続き心を尽くして匡輔し、君主は賢明、臣下は良善という美誉を成就しますように」。と言いました。 その後、皇帝は再び楊士奇に言いました。「皇太后は私にこう言われた。故皇帝が東宮で皇太子だった時、あなただけが逆らうことを恐れず、故皇帝もあなたの言うことを聞くことができたので、悪いことは何も起こらなかった。更に、私にまっすぐな忠告を受け入れるべきだと教えてくれた」

 各地で水害や旱害(かんがい)が頻発したため、皇帝は楊士奇を召して、天罰を免れるために寛大に民を労うことを相談しました。楊士奇は滞納した税金と薪や干し草の税金免除、長引く不正の冤罪の清算などを求め、皇帝がこれに同意すると、国民たちは大喜びです。翌年、楊士奇はまた避難した国民をなだめて、貪官汚吏を懲らしめて、平等に才能のある人を推挙することを求めましたが、皇帝はすべて同意しました。

 楊士奇と他の大臣は協力して自分の職務を果たして、皇帝は統治に努め、人民の苦しみを心配して、心を開いて諫めを受け入れることができて、その間は国の政治が開明となり、社会が安定しました。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2007/9/14/162670.html)