文/河北省の大法弟子
【明慧日本2024年11月4日】私は夫とお見合いで知り合いました。当時、私たちが住む城中村で工場の求人があり、農村を離れることができました。結婚する前に、私は応募して採用されました。実は、夫も応募の指標を持っていました。夫の父親は文化大革命中に迫害されて亡くなったので、当時の政策によって、文化大革命で迫害を受けた家族には、1人の採用指標が与えられたのです。義母は私たちの結婚がダメになってしまうことを恐れ、夫に行かせると承諾した上で、「行けなかったら、別れてもいいわよ」と約束しました。すぐに年末になるし、私たちも結婚適齢期を過ぎていたので、双方の親に結婚を勧められました。私は当時、夫がまだ採用が決まっていなかったため、結婚したくないと言いましたが、義母の保証と両親の勧めもあり、年末に結婚することにしました。結婚の時、義姉がよその地域から帰ってきて、義母に「お母さんは、娘の私に頼って生活したほうが安心できると思います。はお金を親にあげることができるけど、息子はそれができますか?」と説得しました。それで義母は採用指標を義姉に譲りました。
このことで私はとても怒ってしまい、腎炎にかかり、働けなくなりました。力もなく、工場での仕事もできず、毎日病気で薬が欠かせませんでした。夫は私に「外に出て気分転換すれば良くなるよ」と言ってくれました。外を散歩していると、法輪功学習者が煉功をしているのを見かけました。彼らが私に大法を伝えましたが、その時は信じませんでした。ある日、散歩していると、多くの人が私たちの生産隊の古い建物に入っていくのを見ました。気になって覗いてみると、壁に「真・善・忍」と大きな字で書かれているのを見ました。その時、「私も『忍』を修める必要がある。『忍』をすることができれば、長生きができる、そうでなければ命が縮むことは間違いない」と思いました。
それから毎日、気晴らしにここに来るようになり、まるで友達の家を訪ねるような感じで来ていました。当時、修煉についてよく分かっていませんでしたが、他の人が大法の本を読んでいるのを見て、私はただ聞いていました。1カ月余り聞いているうちに、私の体内からガスが次々と出るようになり、すっきりしました。そして煉功の音楽を聴くのも好きで、とても穏やかに感じました。ある時、1人の学習者が胸につけていた法輪のバッジが回転しているのが見えました。それが何層にもわたって回転していて、とても美しかったです。その後、私は大法の本を買ってきて、大法の修煉を始めました。
それ以降、私はすっかり元気になり、体が軽やかになり、どんな仕事でもできるようになり、毎日が嬉しくてたまらないのです。なぜこんなに嬉しいのか、自分でもはっきりとは言えませんが、とにかく明るくて、不満や恨みを持たなくなりました。学法を通して、全ては運命なのだと理解し、この家に来たのは借りを返すためだったのだと分かり、自分がかわいそうだとは思わなくなりました。
1999年の春、私たちの城中村が再開発のために取り壊されることになりました。その時、私と義兄は夫の叔母の家で物の整理を手伝っていました。叔母はすでに亡くなっており、子供たちはみな遠くに住んでいたため、家には誰も住んでいませんでした。私たちは家の中を整理し、売れる物をすべて売り、そのお金を義母に渡しました。しかし、私は何度も荷物を外に運び出していたのですが、義母は私を見るたびに罵ってきました。私がどこへ行っても、義母は後をついて来て罵り続けました。私は大法を修煉しており、すべて因縁関係によるものだと理解していたので、何も言い返さず、「これは借りを返しているのだ」と思いながらひたすら耐えていました。それを見ていた近所の人は「もういいでしょう。1時間以上も罵ったんだから。お嫁さんも50歳を過ぎた人でしょう」と止めてくれました。すると義母は家に戻り、家の中でもまだ罵っていました。
その後、しばらくして、義母は今度は長男の嫁を罵り始めましたが、彼女は耐えきれず、義母と口論になりました。その結果、義母は怒りで心臓病を引き起こしました。
義母が心臓病を患い、北京で治療を受けることになりました。彼女の長男や次女はすでに退職していたのですが、義母は彼らに付き添ってもらうことを拒み、毎日私に付き添いを頼んできました。私は我慢できず、「娘に頼るのがいいでしょう。良いことは全部娘にあげて、病気になったら私に頼るなんて、私は行かない」と言いました。しかし、義母はどうしても譲りませんでした。その後、私は「自分は大法修煉者だ。師父が私たちに良い人になるようにと教えてくださったのに、たとえ損をしてもやらなければならない」と思い直し、義母に付き添って北京の病院に行くことにしました。しかし、そうなると、金銭的にも時間的にも負担がかかるだけでなく、病人を世話することは、心身ともに疲れることでした。それだけではなく、行く途中でも義母はずっと私を罵っていました。それでも私は師父の「殴られても殴り返さず、罵られてもやり返さず」(『転法輪』)という教えを思い出し、義母の態度を気にしないようにしました。
師父は「忍とは心性を高める鍵です。怒り恨むこと、不平、涙をたたえて忍ぶことは常人が世間体に執着する忍です。まったく怒り恨むことがなく、不平に思わないことこそ修煉者の忍なのです」と説かれました。(『精進要旨』「忍とは何か」)私はいつもこの教えを暗唱していました。暗唱しているうちに、心から怒ることも恨むこともなくなりました。
夫には兄弟が4人おり、義母は住宅がありますが、老後資金は4人の兄弟がそれぞれ負担しています。しかし、住宅も老後資金も全部末っ子に取られました。2003年の冬、大雪が降った時、義母はまだ古い家に住んでいました。当時、私たちはマンションを購入し、夫は「母が寒いだろうから、ここに呼びたい」と言いました。私は「大法を修煉し、真・善・忍に従って良い人になり、大法に恥をかかせてはいけない」と思い、義母を家に迎えることにしました。言うのは簡単ですが、実際に義母が来れば私が世話をしなければなりません。修煉していなかったら、絶対にここまでできないと思います。義母が病気になると、義姉も義妹も遠くに逃げ、お金も出さず、見舞いに来ることもありませんでした。義母は娘を頼りにするという話を二度と口にしませんでした。夫の兄嫁たちは誰一人として義母の面倒を見ませんでした。私は「私は修煉者だから、無視するわけにはいかない。大法の素晴らしさを実証し、善をもって恩怨や葛藤を解決しなければならない」と思いました。
夫が亡くなった後も、私は義母に餃子や食べ物を届けていました。義姉も「息子の嫁は、私たち娘よりもよく母の世話をしてくれますね」と認めていました。
義母の娘たちは実家に帰ると必ず揉め事を起こします。義母が亡くなった時、世話人から「今後、娘たちが来たとき、誰が接待しますか?」と聞かれると、義兄たちは「うちは接待しない」と言いました。そこで世話人が私に尋ねました。当時、夫はすでに亡くなっていましたが、私は「私が接待します。祝日や節句の時には、うちで彼女たちを招待します」と答えました。清明節の行事の時、兄弟たちが順番に義姉たちを招待することになっていましたが、誰も食事を用意しませんでした。私の番が来た時、私は「今日は私が招待します。外食しましょう」と言いました。私は大法弟子なので、良い人でなければならず、大法に恥をかかせるわけにはいきません。
義母が亡くなった後、遠方から戻った義姉は誰からも相手にされませんでしたが、私は義姉を家に招いて食事をさせました。義姉は涙を流しながら私の娘に、「私が今までで一番申し訳ないと思っているのは、あなたのお母さんよ」と言ってくれました。