伝統芸術の修復の道における修煉(一)
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文/ヨーロッパの青年大法弟子

 【明慧日本2025年3月18日】私は2020年に法を得て修煉している青年大法弟子です。現在、壁画修復を専攻する2年生です。修復芸術の世界の一員として得た修煉体験をいくつか共有したいと思います。

 学校の先生を通じて師父から啓示

 時々、先生方が学校のことについて話しているときに、より深い修煉の問題を指摘していることに気づくことがあります。これは師父が先生方の言葉を通じて私にヒントを与えてくださっていることを理解しています。

 ある日、静物画を描いていた時、私の絵はうまく描けていませんでした。私の描き方に何か間違いがあったのです。先生は私の遠近法が間違っていて、地平線を低く設定しすぎていると指摘し、もっと高い角度から物事を見るべきだと言いました。

 私は、新しいプロジェクトを始めるのをためらうことがよくあると気づきました。自分が十分に良くないと思ったり、自分を低く見すぎるために、修煉の問題が大きすぎると感じるのです。もっと高い視点を持つべきで、大法弟子が持つべき正念があれば、乗り越えられないものはなく、尊厳を持って衆生を救うことができるのです。

 自分を正しく位置づけることがとても重要だと気づきました。私は大法の一粒子であり、何も恐れる理由はありません。自分を過小評価することは、実は自己膨張させることと同じくらい利己的です。どちらも、自分を正しく位置づけることができていないことから生じます。

 謙虚でありながら勇敢であるべきです。自分を信じなければ、うまくいかず、衆生を救う力も弱くなることに気づきました。なぜなら、そういう場合、正念がないからです。代わりに、自分のことばかり考え、何もできないのではないかと心配してしまいます。しかし、衆生を救うことは自分のためではありません。まず他人のことを考え、すべきことをすべきです。また、師父は私を信じているのに、私が自分を信じないのは、師父を信じていないことになるのではないでしょうか。これも「信」の問題です。

 別のクラスで、人物のデッサンをしている時、先生は私の解剖学が不正確だと指摘しました。描いた人物がしっかりと立っておらず、地に足がついていないので倒れそうでした。これも、私の視点が間違っていたからです。

 修煉に関連づけると、法にしっかりと根ざす必要があることを悟りました。表面上どんなに良く見えても、基礎をしっかりと築かなければなりません。物事に対する視点が間違っていれば、うまくいきません。

 時々、私の修煉はかなり表面的であることに気づきました。五つの功法煉功し、法を学び、正念を発し、真相を伝える活動に参加しましたが、それぞれをきちんと行っているでしょうか? 法を「学んで」いたのか、それとも単に「読んで」いただけなのか? 結跏趺坐して心ここにあらずに正念を発する姿勢をとっていただけなのか、それとも本当に十方世界を震撼させる正念を発していたのか? 表面的な修煉なのか、それとも真に修煉し、自分の存在の細部まで法に同化させ、同時に衆生を救う真の心を持っていたのか? 答えは、必ずしもそうではありません。

 三つのことを全身全霊で取り組み、精進し、徐々に修煉において表面的でなくなる状態に達する必要があります。これは壁画を描くようなものです。壁がぐらついていれば、どんなに美しい壁画を描いても無意味です。時々、表面上は「精進」しているように見えても、実際にはうまくいっていないことに気づきました。これは壁画のようなものです。フレスコ画のための濡れた石膏をいくらきれいに準備しても、壁が安定していなければ崩れてしまいます。時々、「精進している外見」を持っていても、本当はしっかりやっていないことに気づきました。

 人物画の授業では、通常、等身大の人物の長い習作を描きます。ある日、先生が課題を変え、たくさんの小さな速写をすることになりました。私はとても下手でした。等身大の方が得意だと気づきました。なぜなら、すでにたくさんの等身大の人物を描いていて、体の各部分がどのくらいの大きさであるべきかを知っているからです。しかし、形式が変わると、私の比率は正確ではありませんでした。

 これは、私の執着心についても同じだと気づきました。私は学ぶことができるし、同じ状況で同じ間違いを繰り返さないようにできます。しかし、異なる状況では自分の執着に気づかず、認識もしていないことがよくあります。単に状況を暗記し、そういう場合にどう考え、話し、行動すべきかを覚えるだけでなく、理解とアプローチを深める必要があります。外部の状況がどうあれ、私のアプローチが心の中からの深い理解に基づくように、修煉においてもっと誠実になる必要があります。

 嫉妬心

 私は時々、主に同修に対して嫉妒心を抱くことがあります。幸いなことに、私たちはお互いに率直に交流でき、それを私たちの間に障壁を作ろうとする自分でないものとして扱っています。お互いに嫉妬していることに気づいたとき、私たちはこれらの悪い考えを取り除くために助け合い、励まし合います。同修の皆さん、ありがとうございます!

 クラスメイトたちは、この執着心がいかに邪魔で不必要なものか理解するのを大いに助けてくれました。私の専攻は壁画修復で、これはグループ作業です。学校では、デッサンや絵画の準備クラスで、先生が私たちの作品を比較し、互いに学び合うようにさせます。私は同級生より少し上手に描けたので、みんなに嫉妬されました。しかし、足場の上で一緒に作業するとき、ファサードは一人で行うには大きすぎます。私たち自身よりもはるかに大きな(物理的にも)何かに対して、チームとしてうまく協力しなければなりません。競争する意味はありません。また、私たちはまだ学生なので、誰かが他の人よりも少し上手くできたとしても、私たちは全員、達成すべき基準からはほど遠く、まだ学ぶべきことがたくさんあります。卒業後は、もう二度と会うことはないかもしれません。

 私たちの修煉者も非常に似ていることに気づきました。この人間世界にいる間は、誰も基準に達していませんし、まだ修煉すべきことがたくさんあります。お互いから学ぶべきですが、競争すべきではありません。お互いから学べるだけでなく、それぞれ修煉者の長所を活かして、より効果的に衆生を救うこともできます。ある人はこの面で優れ、別の人は別の面で優れています。私たちは一緒に仕事をうまくこなし、互いに補い合うことができます。なぜなら、私たち自身よりもはるかに大きな、偉大で神聖な使命を担っているので、しっかり協力すべきだからです。そして、修煉を完成させ圓満成就に達した後、私たちは自分自身の天国を管理しなければならず、もう二度と会うことはないでしょう。だから、同修との間で妬む心が障害となることは許せません。なぜなら、私たちはしばらくの間だけのクラスメートみたいなものだからです。

 化学と技術の授業から得た収穫

 修煉を始めてから、一時期、世俗の知識を学ぶことへの興味を失いました。優秀な試験成績を収めていましたが、それは単に大法のイメージを損なわないように「良い学生を演じる」必要があったからです。実際には、良い学生に見えるだけでなく、本当に良い学生になるべきでしたが、私にはそれが理解できませんでした。なぜこれやあれや宇宙人のものを学ばなければならないのかと不満を抱いていました。最近、あらゆるものの中に心性向上のためのヒントを見出せること、そして師父も現代科学を使って法を説明していることに気づきました。これらのことを通じて、より高い法理を理解し、大法を実証できると悟りました。また、物質的な生存環境を大切にすることは、神への敬意でもあると思います。なぜなら、これは神が私たちの修煉と法を実証するために作り出した環境だからです。

 ここで、化学と技術の授業から得た2つの収穫を共有したいと思います。

 学校の先生は、現代アートは修復しようとしてもほとんど不可能だと説明しました。ゴッホの作品は、数世紀も持続したルネサンス期の作品と比べて、わずか数十年で劣化し始めたそうです。そして、ルネサンス期の作品は損傷しても、伝統的な技法と材料を使用しているため、比較的簡単に修復できるとのことでした。これらは今なお我々が持つ最も効果的なアプローチとされています。

 伝統的な方法で創作するには通常、多くの時間がかかります。例えば、絵画の下地を準備するだけでも数ヶ月かかりました。芸術家たちは通常とても貧しく、生前は認められず、名声や利益を求めませんでした。彼らは神々を讃えるために芸術を創造しました。また、使用する材料の物理的・化学的特性を尊重し、規則に従いました。

 対照的に、現代アートは構図や材料の使用においてルールを無視しています。現代アーティストたちは意図的に伝統に反し、彼らの生み出す芸術は混乱を招きます。それはまるで、あらゆる点で神と戦う共産主義の邪霊の要です。物質的な面では、現代アートは化学的に相容れない物質を組み合わせ、キャンバス、石膏、そして絵具の層を傷つけることで現れます。そのため、絵画が自己破壊的であるため、完全に修復することはほぼ不可能なのです。

 どんなに悪魔的なもの(とても醜く見えることもある)であっても、実はとても短命で弱いものなのだと悟りました。これは「邪悪は永遠に正義に勝てない」現れだと見ています。

 師父は『轉法輪』第五講で次のように説かれています。「また道が一尺高ければ、魔は一丈高くなる」と言う人がいます。それは常人の邪説で、どんな時になっても魔は道より高くなることはありえません。」

 私たちは、油絵の伝統的な重ね塗りの技法であるグレージング法と、「一気に」という意味の「アラ・プリマ」と呼ばれるより現代的な技法についても学びました。

 重ね塗り技法(グレージング)とは、透明な層を何層にも重ねることで、より深い印象を与えます。光が絵の表面に到達すると、これらの層が透明なので、下層に到達するまで通過します。そこで光が反射されます。この過程で、光が各層を通過する際に多くの顔料粒子に遭遇するため、大量の光が吸収されます。これが、同じ顔料を使用しても、重ね塗り技法の方が暗く見える理由です。また、通常、色はパレット上で混ぜられず、非常に薄めた絵の具で別の透明な層で絶えず調整することで最終的な色が達成されます。そして、多くの透明な層があるため、元の地塗り、下塗り、または基層が透けて見えます。

 対照的に、アラ・プリマは絵の具の層を使用せず、望む色を混ぜた一つの厚い絵の具の層だけを使います。光がそのような絵に到達すると、深く浸透できず、ほぼ即座に反射されるので、重ね塗りの技法と比べて色はより浅く、光は元の下地には届きません。それを厚い絵の具の層が完全に覆ってしまいます。

 これには深い意味があるように思え、自分の修煉の仕方を振り返るきっかけになりました。時々「アラ・プリマ」のようなことをしたくなります。生涯にわたって蓄積してきたすべてのゴミを一気に取り除きたいのです。しかし、これは非常に表面的で、ただ一つの執着を別の執着に置き換えているだけで、別のものを試すだけです。それは決して「真の自分」に届きません。深く掘り下げずに表面に何かの厚い層をかぶせるだけでは、決して元の真の自己ほど純粋にはなりません。また、私が焦っているとき、それは三つの最も重要な特性の一つである「忍」に従って修煉していないからではないかと気づきました。

 だからこそ、法輪大法の修煉はとてもパワフルなのです。なぜなら、表面的な変化を加えるだけでなく、私たちを根本的に本当に変え、真の自己に戻すことができるからです。

 師父はおっしゃいました。

 「皆さんに教えますが、皆さんの修煉が本当に非常によくできているのを私は目にしました。特に古くからの学習者ですが、私は皆さんを見て本当に嬉しく思っています。しかし、皆さんにも同じような問題があり、時々考えに良くないものが反映してくることがあり、ひいては、たまに相当良くないものが現れてきます。しかも現れてきたそれらの良くないものは、ますます悪くなることがあります。私は皆さんにこの道理を教えているだけです。私たちが修煉の時、ご存知のように、ミクロからあなたの生命の構成を変えているので、変えられたあなたのその部分はつまり、基準に達しており、その部分は既に人間とは言えません。あなたの人間のこの部分が何かをする時、その部分は一緒になって行なってはいけません。さもなければ、神が悪いことをすることになり、堕ちてしまうことになります。これは絶対に許されないことです。ですから、皆さんは絶えず修煉し、法の基準に達したその部分は絶えず隔離されています。つまり、木の年輪のように、修煉中に一層また一層、外に広がっており、木の皮はあなたの表面です。修煉して良くできた部分が中から外に向かっていくように修めており、最終的に表面まで修めるのです。修煉してできたその部分は神であり、まだできていない部分は人間なのです」(『長春輔導員法会での説法』)

 私が誠実に、そして忍耐強く執着心を一層一層を掘り下げていくとき、より深く進むことができ、それが真を求めるのです。時には、深く隠れた執着に出会うとき、まるで光がアラ・プリマよりも何層にも重なった顔料粒子に遭遇するようにそれがとても汚いと感じます。しかし、私は法からより多くの光を吸収することができます。自分の過ちについて、透明で開放的になり、最終的に本来の真の自分に届き、そして、積み重なった汚れの層を通して正念を輝かせ、慈悲を見出すべきです。一晩で佛になれないのは、一度で望む色が得られないのと同じように大丈夫なのです。小さな一歩一歩を積み重ね、ゆっくりと大法に同化していくことができます。

 神が人類に残した西洋の伝統的な油絵がこれほどすばらしいものであることに驚きました。なぜなら、それは(絵画の分野における)宇宙の真・善・忍の特性を体現しているからです!

 (続く)

 
翻訳原文(中国語):https://www.minghui.org/mh/articles/2025/2/11/490616.html
 
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