文/海外の大法弟子
【明慧日本2021年5月23日】全世界には1億の大法弟子がいますが、中には一家全員または三世代全員が修煉するケースがあります。私はこのような家庭の中で生まれ育ちました。私は母、祖母と一緒に修煉している三世代の大法弟子です。
法輪功は中国共産党(以下、中共)に迫害されていますが、それでも母と私は常に大法を信じて法輪功とな何か、中共の法輪功への迫害の実態を伝えてきました。私は母と一緒に身柄を拘束され、不法に拘禁されたことがあります。その間、私は本来この年齢では直面すべきでないいろんな圧力とダメージを受けましたが、逆境にいながらも私はできるだけポジティブな考えを持ち、学校の成績はクラスでトップでした。海外にいる祖母も世界中に向かって中共による私の母への迫害事実を発信し続けてきました。
最終的に、私たち三世代は自由の国アメリカで再会できました。法輪大法が広く伝わる29年目の記念すべきこのとき、私は自分の成長の過程をつづり、慈悲で偉大な師父に感謝の気持ちを伝えたいと思います。
5歳から修煉する
祖母は1997年から修煉を始めました。母も1998年明けに修煉を始めたので、その時に5歳になった私も修煉を始めました。私は同修の皆さんに、「師父は1992年5月から大法を伝え始められましたが、私は1992年5月に生まれたので、私は大法のためにやってきた」といつも誇り高く話していました。
修煉を始めてから、私は毎日師父の説法の録音テープを聞いていました。たくさん聞いてきたので師父の最初の言葉がでると、次に何が出るのかが分かるようになりました。また、私は母と一緒に『洪吟』の詩を暗記していたので、大法は私の心の奥深くに根ざし、心性を守ることは私にとって日常茶飯事でした。損をしても人助けをしたいし、誰かにいじめられても全く気にせず、周りのみんなは私のことが大好きでした。あるとき坐禅をしていた私、あはと5分で1時間になるとき、足がとても痛くなったのでどうすれば1時間まで我慢できるのと母に聞いたら、「忍び難きは忍びうる。行ない難きも行ないうる」[1]と話してくれました。私は繰り返してこれを念じて組んだ足を下ろしませんでした。その結果やっと1時間を突破できました。
私は小さい時から病弱でよく風邪をひいたり花粉症に悩まされていました。春になるたび目が痒くなり大変つらかったのですが、修煉してから体が丈夫になり、業を滅する状態であってもすぐによくなり、花粉症も気づいたら治っていました。小さいときから絵を描くことが大好きだった私は思う存分に大自然の中に溶け込んでいろんな風景を描いて、師父に守られる中で健全に育ちました。
迫害が始まる
しかしながら、こんなに素晴らしい気功にも関わらず、1999年7月になってから中共の江沢民政権による迫害と弾圧が始まりましたが、ほかの同修たちと同じように、私と母もいろんな方法で法輪功の真の姿を伝えました。
最初は印刷された法輪功の資料がなかったため、私は母と手書きで作りました。「法輪大法は素晴らしい」、「真・善・忍は素晴らしい」、「師父に着せた汚名を正せ」などを描いた張り紙を、天安門広場、いろんな商店、駅、マンションなどのいたるところに貼りました。バスの中、マクドナルドの中、ケンタッキーの中、またはどこかの中華料理店の中でも私と母は迫害の実態を隣の人たちに聞かせました。会社のピクニックでさえ、母は資料を持ち歩き行く先々で貼りました。
それから印刷された資料ができるようになり、私と母は自分たちが住むマンション周辺のすべての建物の中に資料をポスティングしました。さらに遠くの地域にいき、母と私は別れて(マンションなら母が下から、私は上から)ポスティングしました。夏も冬も、平日も祝日も、雨風に影響されることはありませんでした。その後、家に印刷機が導入され、自分たちで資料を印刷するようになりました。これによって自分たちが配る分のみならず、他の同修に資料を渡すことができるようになりました。
母が不当に拘禁される
私が中学生になったとき、母が警官に不当に連行され、労働教養を言い渡されました。ちょうど年末のとき、母が資料を配りに行ってから時間がたっても戻らないので、不安になった私はこのことを祖母に伝え、みんなでできるだけ早く自宅にあった大法の書籍と資料を速やかに安全な場所に移しました。
暫くすると、警官がやってきました。どうやら母が資料を配るときに通報され、警官に拘束されたようです。警官がやってきて、私たちの家の中を一通り調べ、家中がメチャクチャになりました。
母が警官に連行された夜は、私にとっても最も寒い日だと感じました。深夜になっても父は派出所に呼び出され、私は祖母のところにいました。私はずっと泣きながら眠りに入り、また目を覚ましては泣く、そのような日々が続きました。
1カ月後、私たちは母が2年の労働教養を科された通知を受けました。今後は自分のことは自分で何とかしなくてはと思いました。母のことで父と祖母も大変つらいので、迷惑をかけてはいけないと思うようになり、直ちに奇跡が起きました。それまでは朝は母に起こされていましたが、母が連行されてから自分でアラームを設定していつも自力で起きられるようになりました。遅刻したことはありません。私が母と会えるのは年に2回だけで、冬休みに1回と夏休みに1回です。普段は手紙でやり取りをして、学校の状況を報告しました。母は返信を通じて良い人になるように常に諭してくれました。母と手紙をやり取りをするのは、間接的に法輪功とはどんなものかを、手紙を検閲する警官たちに伝える目的もありました。
頑張り続ける
中学校2年生のとき、普通は中国共青団へ入団しますが、私のいたクラスでは私だけがまだ入団していませんでした。
クラス担任の先生が私になぜ入団申請を出さないのかと聞き、私は「共産党は悪いものです。母は真・善・忍を信じて法輪功を修煉したら共産党に迫害されました」と話して、先生に迫害の実態を伝えました。先生はあなたのお母さんは良い人ですねと言い、それ以来入団のことを口にしませんでした。師父の按排に感謝します! 私に真相を伝えるきっかけを作って下さり、先生は真相を知ることで素晴らしい未来を選びました。
その後高校入試になり、私は順調に地元の良い高校に入学できました。多くの生徒は入学のための寄付金を出して入学のチャンスをつかむほどでしたので、「あなたはお母さんにいっぱいお金を節約してあげましたね」といろんな先生と同級生に言われました。そのとき母はまだ不当に拘禁されていたので、私が本当に大丈夫かと母は心配していましたが、私は母に「安心してください。私は草のように、どこにいても生きていけます」と伝えました。
高校の勉強が大変忙しく、卒業前に私は美術を専攻しました。師父から智慧を頂いたおかげで私は優秀な成績を収め、二つの良い美術学校から入学通知を受けました。
大法が私の心で深く根ざし、私は師父の教えに従って心性を守り、自分を修めてきました。中学校、高校そして大学でも先生とほかの生徒とは良い環境を築き、大法が共産党に迫害される中でも私はできるだけ良くしてきました。
(続く)