青年同修 「大法を修煉することで人生の意義を見つけた」(ニ)
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 【明慧日本2023年8月4日】(前文に続く)

 師父の按排に従う

 今年の初め、私はハーバード大学で法輪大法クラブを作ることを真剣に考えていました。以前からその願望はあったのですが、学校の学習者数が足りないとか、常人が大法を誤解してクラブ設立に反対するかもしれないとか、いろいろ言い訳をして避けていました。 その後、師父の助けの下で、私が避けていた本当の理由がわかりました。気楽に執着し、書類作成などの事務処理を恐れていたのです。職場である事故に遭った後、私が書類作成などの事務処理を恐れていたのは怠慢によるものだけでなく、問題そのものよりも自分を優先させる自己への執着の現れであったことに気づきました。この執着に気づいた後、私はクラブ設立のための書類を準備することにしました。

 当初、師父は私が状況をよく知らない時から、すでにいろいろなことを段取りしてくださっていたことに気づきました。クラブ設立の条件のひとつは、少なくとも12人の学生がクラブのメンバーになることに同意することです。大法クラブを結成するため、私は学校の寮に入り、他の学生たちと一緒に暮らすことにしました。その後、大法クラブへの入会を最も熱望しているのは、私の寮の隣に住んでいる学生であることに気づいたのです。もし私がこのクラブを利用して真相を伝え、衆生を救うことができれば、クラブの結成に協力した人たちは皆、その貢献と同等の威徳を得ることができるだろうと思いました。私は学生たちにクラブへの参加を呼びかけ始めました。ある人はすぐに承諾し、ある人は大法と迫害についてもっと知りたがったので、私はこの機会を利用して、彼らに真相を伝え、何人かは真相を知ってからクラブに入ることに同意してくれました。

 クラブ結成に必要な人数分の部員を集めた後、私は学校の職員との面接を2回受けなければならなかったのです。面接のたびに、正念を保つよう自分に言い聞かせています。一次面接は簡単でしたが、二次面接の前に、面接官の一人の名前を見て、この人は中国の人だろうと思い、この人がクラブ結成を阻止するのではないかと心配になりました。しかしよく考えてみると、これは真相を伝えるためのいい機会だと思うようになりました。師父に、この人に大法の真相を理解させる知恵を与えてくださるようお願いしました。 私は正念を発し続け、その人が現れたとき、実は彼女は西洋人の女性でした。その女性は次の面接が挑戦的になると私に注意をしてくれて、難しい質問にどう答えるか準備するのを手伝ってくれました。この出来事を通して、自分が多くの常人の観念に制限されていること、そして正念を持ち続ければ、妨害を取り除くことができることに気づいたのです。師父は、私に大法をより強く信じさせるために、この件を段取りしてくださったのだと感じました。

 最終面接のとき、私は自分の修煉を緩め、正念が足りなかったのです。同修たちとこの朗報をいかに分かち合うかということだけを考えていました。その結果、投票当日、スタッフから「委員会ではその場での採決は行わず、慎重に検討した上で決定することにした」と告げられ、深刻な妨害が起きることがあると気づいたのです。1人の中国から来た学生会のメンバーは、多くの大法を非難し誹謗中傷する話題を挙げました。私はできるだけ落ち着くようにし、大法の真相を皆さんに伝えましたが、心の底では、私は防衛的になり始め、大法を実証するというより、自分自身を実証しようとしました。20分の面接の後、結果を待ってくださいと言われましたが、しかし、その後結果は知らされず、私は失望と怒りを感じました。

 その後、委員会から枠外の2つの質問に答えるよう求められました。最初、私は不当な扱いを受けていると感じ、委員会が大法を誤解しているため、私は差別されているのだと訴えました。法的措置をとるとか、他の新聞のインタビューを受けるとか、他の報復手段を使って「やり返す」ことも考えたのですが、しかし、私は修煉者である以上、内に向けて探すべきなのです。自分が被害者であると考えたり、自分を不当に扱った者に復讐したいと思ったりするのは常人の考えなのです。私がすることはすべて自分のためではなく、自分を証明するためだけに自分の能力を誇示すべきではないと、師父は気づかせてくださったのです。大法弟子として、私がすることはすべて、師が法を正すことを手伝い衆生を救うためのものでなければなりません。私がすること、考えることはすべて、人を救おうとする心から来るものでなければならないのです。

 委員会から出された最初の質問は、このクラブは学生がどのように具体的なニーズに応えるかというものでした。当初、私は、委員会が差別の非難を避けるために、技術的な理由を使おうとし、クラブの結成を拒否しようとしていると思っていました。 私はこの考えに怒りと苛立ちを感じ、いかに反撃をし、彼らを圧制するかの方法を考え始めたのです。考えようとすればするほど、無力さを感じました。そこで私は、この質問にどう答えるべきか、師父に祈りました。すると突然、「人々を救うためのあなたの計画は何ですか?」という問いが頭に浮かんできました。その瞬間、苛立ちや怒りの感情は消え去り、クラブの真の目的はより多くの衆生を救うことだと理解しました。この8カ月で私が出会ったすべてのことが頭の中を駆け巡り、このクラブがこの学校の学生たち、そして現在と未来の修煉者たちにとって、いかに重要であるかを確認しました。師父は、私がこのようなことに対処できるように、ずっと前にこのような機会をすべて按排りしてくださったのだと気づきました。そう考えた私は、クラブが学生たちに提供できる活動、福利、助けについて整理できるようになりました。

 二つ目の問題は、クラブが独立し、外部の組織に利用されないようにするにはどうすればいいのかということです。この質問に対して、私の最初の反応は、委員会は大法よりも上だと考えているのではないかということでした。クラブ結成を拒否するために別の口実を見つけようとしたのだろうと思ったのです。私はイライラし、委員会の人たちがそこまで自己中心的であるなら、救われる筋合いはないと思いました。しかし、どう答えようかと考えているうちに、急に体が温かくなり、師父の声が聞こえてきました。「人を救うために、できるだけ譲歩する」と私は理解しました。

 今までの自分の考え方が、旧勢力の思惟と同じだったことに気づいたのです。旧勢力 は、自分たちが救う価値があると思う衆生しか救わず、よくない衆生に対しては、罰して滅ぼしてしまうのです。師父が法を正すことを手伝うために、師父の仰ることを聞かなければなりません。私の理解では、衆生が過去に犯した過ちがどんなに多くあるか、その過程でもたらした困難がどんなに多くあるかに関係なく、師父はすべての衆生に救われる機会を与えて下さったということです。

 このことを理解した私は、もはや不公平を感じなくなりました。私はクラブにいくつかの制限を設け、委員会が別の提案をしてきたときには、非常にオープン的に対処しました。委員会がどんなに私やクラブ結成について誤解していたとしても、私は忍耐強く接しました。

 初稿が完成した後、何人かの同修に送って意見を尋ねました。また、学校側の代表者にも初稿を送り、提案をいただきました。一人一人の同修から異なるアイデアや意見もいただきました。若い同修は、委員会を怒らせないように穏やかなアプローチを使うようにとアドバイスしてくれ、法学専攻の同修は、委員会がこのクラブを差別していることを理解させるために、毅然とした態度で法律用語を使うようアドバイスしてくれました。学校側の代表は、大法の話を多く言及せず、クラブの今後の活動に焦点を当てるべきだと提案してくれました。一方、個人的には、自分の経験で人を感動させる方が好きなのですが、これらのアイデアや提案を見て、私はどうすれば良いかわからなくなってしまい、頭が痛くなりました。

 その後、クラブ結成の真意をまたもや忘れていたことに気づきました。クラブは真相を伝え、衆生を救う機会なのです。ですから、私は大法の話をやめて、クラブのことだけに集中することはできません。衆生を救うためには、これらの衆生を大切にしながらも、自分のやっていることが正しいということを忘れず、ブレてはいけないのです。さらに、クラブは自分のことを実証したり、自己感情を満足させたりするためのものではなく、大法を実証するためのものです。ですから、自分の感情を重くみてはいけません。こうして私の思考は再び明瞭になり、初稿を修正し、完成して委員会に送りました。

 この出来事を通して、修煉の過程で出会うすべてのものには2つの捉え方があることに気づいたのです。常人のように振る舞い、考えるとき、私は旧勢力が段取りした道に従って歩くことになり、反対に、自分が大法弟子であることを自覚し、法に基づく理解に従ってすべてを判断するとき、私は師父の按排に従っているのです。違う道を選ぶと、違う結果になるのです。

 最終回答を提出した後、私はできるだけ投票結果に執着しないようにしました。そして、学校内の衆生が自分たちを救うために正しい判断をしてくれることを願いながら、正念を発し続けていました。他の同修も、一緒に発正念をすると提案してくれました。時々、クラブ結成が拒否されるかもしれないことを考えると、これは旧勢力の妨害なのだと気づき、そのようなことは考えないようにして、正念を保ち続けるようにしていました。クラブの結成は、師父がより多くの衆生を救うことを助けてくださっていると、私は信じています。クラブが本当に多くの衆生を救うことができるのなら、誰もそれを止めることはできません。

 この間、師父の説法を思い出しました。「わたしがむかし修煉していた時、多くの高人がこんなことを言ってくれました。「忍び難きは忍びうる。行ない難きも行ないうる」。実際その通りです。皆さんは帰ってからぜひ試しにやってみてください。本当の劫難に直面した時、あるいは関門を乗り越える時に、試してみてください。耐え難いものを耐えてみてください。乗り越えられそうもないと見えても、行ない難いと言われても、本当にできるかどうか試しにやってみてください。もし本当にやり遂げられれば、きっと「柳暗花明又一村」というように、眼前に新たな世界が開けることに気づくに違いありません!」[1]

 一週間後、クラブ結成が承認されたという連絡を受け、喜びでいっぱいになりました。すべては師父の按排だと感じました。私が出会ったすべての同修、私が遭遇したすべての魔難は、私がより多くの衆生を救うため、心性を高めるためだったのです。師父に感謝しております。

 喜びに満たされた時、羅漢が喜びや恐れから堕ちてしまった話を思い出したのです。 歓喜心も執着心なので、常に正念を保つ必要があることに気づきました。クラブ結成はその第一歩に過ぎず、これからのあらゆる活動において、クラブにやってくるすべての衆生を救うために、私は常に人を救いたいという願いを持ち、正念を保っていく必要があります。

 結語

 法を得て大法弟子になれたことをとても幸運に思っています。修煉を深めれば深めるほど、師父が私に与えてくださった機会が信じられないほど貴重なものであることが理解でき、私の人生はより有意義になったと感じます。法を得る前は、時間が経つのがとても早く感じ、思い出せないこともありました。 しかし、この交流文を書く過程を振り返ってみると、多くの有意義な時間を思い出すことができ、法を得たのは一年だけでなく、何年も大法を修めたと感じました。

 もっと早く法を得ておけばよかったと後悔することもあります。子供の頃に大法を修めた若い同修たちを見ると、自分が情けなくなるのですが、しかし、このような感情も執着であることに気づきました。大法弟子として、私が経験したすべてのことは、私が法を得るために師父が按排りしてくださったのです。後悔するのではなく、修煉の一瞬一瞬を大切にし、師が法を正すことを手伝わなければならないのです。

 師父の慈悲なる救い済度に感謝いたします。同修の皆さんのご協力、激励に感謝します。

 次元が限られているため、以上の交流には法に背き不適切なところがあれば、同修の慈悲なるご叱正をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [2] 李洪志師父の著作:『シドニー法会での説法』

 (2023年ニューイングランド地区の法輪大法交流会発表原稿)

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/5/27/461250.html)
 
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