文/中国の大法弟子
【明慧日本2024年12月21日】私は2000年代生まれの青年の大法弟子です。これまでずっと自分は大法の子供弟子だと思い、大人たちが修煉するのについていけばよいと思っていましたが、実際には自分で判断できる人となっていました。最近、成長するにつれ、大法を学ぶことによって心性が高まり、考え方や行動にも多くの変化がありました。ここに勇気を出して、自分の修煉における変化を書き記し、同修たちと交流したいと思います。
一、自ら学法してからの変化
小さい頃、母は私を連れて一緒に法を学んでいました。当時の私はまだ年齢が若く、大法を深く理解することができなかったため、学法はずっと表面的で受け身のものとなっていました。そのため、自分が大法を修煉する責任や使命に気づくことができず、ただ「大法は良い」と単純に感じ、大法弟子としての役割や責任は自分とはあまり関係ないものだと思っていました。
しかし、成長するにつれ、特に数年前のコロナの流行期には、たくさんの時間を利用して、落ち着いて自発的に法を学ぶようになりました。母の勧めで、私は師父の説法を最初から順を追って学ぶことにしました。師父が説かれたさまざまな法や、弟子たちが質問した問題の変化から、法を正す進呈を感じました。学法をしていると、まるで自分自身が法会に参加しているように感じ、大法に出会った時の喜びや、迫害が始まった時の圧力、そして大法弟子の堅い正しい信念や師父の慈悲を感じることができ、時には感動して興奮したり、涙を流したりすることもありました。その中で、師父の法を正す偉大さや、大法弟子の存在の意味を深く理解しました。そして、私自身もその一部としてその過程に関わることができると気づきました。これまでのように受け身でいるのではなく、自分自身が真に法に溶け込み、大法の一粒子となるべきだと決意しました。
二、伝統に戻る
私は共産党の文化の中で育った若者として、小学校から伝統的で善良な価値観に触れることが少なく、ほとんどが良くない思想や価値観ばかりでした。幸いなことに、母がずっと法を通じて私を導いてくれたおかげで、最も本質的な善悪の判断を知ることができ、大きな過ちを犯すことはありませんでした。それでも社会の風潮に流されることが多く、自覚しないうちに多くの誤りを犯し、愛や成功を夢見ていたことで、知らず知らずのうちに徳を失っていました。
師父の『洪吟六』が出版され、その中に「善良を保ち、俗世に従って下へ行かないように 変異の中で伝統を守れるのは、神が周囲にいるから」(『洪吟六』「天に帰る道は、大法を修めること」)という法理がありました。その言葉を見たとき、私は少し怖くなりました。学校での自分の行いがよくなかったことで、自分の問題に気づき、これ以上、他の若者たちのような生き方をしてはいけないと思いました。しかし、「伝統的なものが何か? どう行えばよいのか?」最初はよく分かりませんでした。
その後、母が私たちの暇な時間に明慧ラジオの「伝統文化」を聞かせてくれました。その中で、さまざまな学びを得ることができました。例えば、ある秀才が科挙(官吏採用試験)に合格するために都へ向かう途中で、悪事を働いたことにより、すでに成功が約束されていたにもかかわらず、神からその功名が取り消され、最終的には貧困に陥ってしまった話を聞きました。これを聞いて、私は大きな衝撃を受けました。「すべての行いが、自分の未来とつながっている」ということに気づき、師父の『精進要旨』にある「ですから、権力や財を求める者は必ず先にその徳を積まなければならないのですが、苦を嘗めて善を行なえば、多くの徳を積むことができるのです」(『精進要旨』「富ありて徳もある」)の意味をより深く理解することができました。この教えを通じて、自分の行いが未来に与える影響を真剣に考えるようになりました。
その中で印象に残った話があります。ある男性は長い間、神佛を深く敬い、多くの善行を積んできましたが、なぜか人生はずっと不運続きでした。何年も科挙(官吏採用試験)を受けては落第し、息子は外出先で失踪し、妻は失明してしまい、最後には貧困に苦しみました。彼は毎年灶神(厨房や飲食を司る神様)に祈り、自分の不幸が不公正であることを訴えていました。ある日、灶神がその男性の家を訪れ、彼にこう告げました。「あなたは表面上は神佛を敬い、善行を積んでいるように見えますが、実際にはすべて『求める心』に基づいています。表面では女性に対して不適切なことはしていないように見えますが、密かに淫邪な念や他者への嫉妬心があり、あなたの心の中には穢れた考えが満ちています。天の罰はまだ終わっていません。それでもなお功名を望んでいるとは愚かなことです。今から心を改め、真心を込めて善行を行い、不純な念が一切起こらないよう努力すれば、もしかしたら変化が訪れるかもしれません」。この言葉を聞いて、その男性は悟りを開きました。それから心を改め、真剣に善行を行い、地域のために尽くしました。それとともに彼の考えも「静かであれば一念も生まれず、動けば万善がついてくる」という境地に達しました。
この話を聞いたとき、私は非常に衝撃を受けました。常人でもこのような心の変化を遂げることができるのに、修煉者としての私がこのような境地に達しないことはないと思いました。その日以降、私は自分の一つ一つの考えや念をしっかりと見つめ、悪い考えが起きたら抑え込むように努力しました。同時に、学法を強化し、正念を高めるよう心がけました。
先日、ある同修が書いた文章を読みました。その中にはこう書かれていました。「今の若い人はどうしたら他人の注目を引けるかを考えています。しかし修煉者は違います。他人を引きつけるのではなく、他人が自分に対して悪い念を抱かないように心がけることで、他人に業を作らせないのです。これは自分自身に対して責任を持つだけでなく、衆生に対しても責任を果たしています。そのため、異性や他者と接する際、自分が相手に関心を引こうとするのではなく、正々堂々と慈悲深く、相手の立場を思いやる行動を心がけるべきです」。私はこの考え方に深く共鳴しました。
(続く)