青年同修 「大法を修煉することで人生の意義を見つけた」(一)
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文/ニューイングランド地区の大法弟子

 【明慧日本2023年8月3日】

 師父、こんにちは!

 同修の皆さん、こんにちは!

 法を得る

 私は幼い頃、学業のみを重んじており、家庭教育のもとで成績はトップでした。学部を卒業した後、修士号と博士号を取得することを決意したのですが、私の心の奥には常に名声を求める強い執着があり、研究の仕事に携わるようになると、気持ちが深く落ち込みました。あらゆる場面で、無駄に思えるようなさまざまな問題にぶつかったのです。自我への執着が、自分のことが微小だと感じさせ、時には仕事や生活を続ける意欲さえ失わせました。

 危機に直面した私は、自分の苦しみを解決できる答えを探し始めました。その過程で私は、物質世界の現れはひとつだけではないことに気づいたのです。科学者たちは、物質世界を単に解剖し、その一部分だけを研究すると同時に、理解できない部分を捨ててしまうのです。その後、私はスピリチュアルな次元を探索し修行を始めました。科学者としての私は、仕事や日常生活に直面し、混沌とした環境と人々に直面して、常に葛藤しています。物質世界の複雑な科学と、高い次元のスピリチュアルな次元という一見共存できない2つのものがあります。科学的な面では、研究室に行って実験をしたり、自分の分野で新しいことを学んだりすることは、詐欺だと感じて嫌になります。スピリチュアルな面では、絶望を感じ、進める道が見つからなかったので、この苦しみは毎日続き、終わりがないように感じていました。

 新型コロナウィルス流行の終息後、私の状況はさらに悪化したのです。その困難な時期に、私は2019年に初めて観た神韻の公演、特にそのオープニングのことを思い出しました。昨年4月、私は2人の友人とそれぞれ2回の神韻公演を見ました。最初に見た公演では、大法と大法弟子の素晴らしさと厳粛さを感じ、ずっと泣いていました。途中の休憩時間に、フロントで服を販売している同修に話しかけると、「法輪大法を修煉したほうがいいですよ」と勧めてくれました。最初は修煉するつもりはなかったのですが、大法のことをずっと考えていました。法輪大法についての情報を探し始めました。5月13日の「世界法輪大法デー」が近いことを知り、5月13日、私はひざまずいて大法弟子になることを祈りました。その翌日、私はボストン公園の煉功点に行き、他の多くの同修と同じように、初めて『轉法輪』を読んだ時、多くの疑問が解け、師父の慈悲を感じました。私は再び自分自身を見つけ、自分の帰る道を見つけたと感じました。

 法を得た後、再び研究室に行くと、まったく違う気分になりました。私は元気を取り戻し、科学への情熱を見出したのです。さらに、今度は心が澄んで穏やかになりました。以前は何か問題があると、イライラして自己嫌悪に陥り、同僚が成功するのを見ると、嫉妬と不安を感じたりしていました。しかし今、私は大法弟子となり、あらゆる物事をより高い視点から見ることができるようになりました。

 『轉法輪』の第2講で、師父は、「一人の人間が生まれた時、時間概念のないある特殊な空間に、その人の一生がすでに同時に存在しており、一生だけではない場合もあります」 [1]と仰っています。

 普通の人々にとって、人生で手にするものはその人に得るべきものであり、周りの人々の成功に不公平はないと理解しています。私が常人だった頃の苦労には、不公平はなかったのです。私が若い頃に収めた成功はすべて、自分の徳と引き換えだったことに気づきました。自分のことを証明し、人々の賞賛を得る過程で、私は多くの業力を作り出し、それが後の困難の原因となっていたとわかりました。この新しい理解は、私の否定的な考えをなくし、遭遇した困難について思い悩むのではなく、仕事に集中することを助けてくれました。

 大法弟子は、師父が段取りしてくださったことに従わなければならず、自分自身を修煉者とみなし、大法の基点に立ってすべてを判断しなければならないと理解しています。 大法弟子になった今、すべては私の心性を試練するものであり、最も重要なことは、大法弟子としてこれらの試練を乗り越えなければならないということです。

 神韻を宣伝する中、修煉のことをより深く理解した

 新しい学習者として、私にはまだ改善すべき点がたくさんあります。時々、考えすぎて自分の感情を乱してしまうことがあります。 例えば、神韻のポスターを貼っているとき、お店の人が許可してくれると嬉しいし、そうでないと心配になります。同修と一緒に上映会をするときは、ゲストが直前になって日程を変更しないかと心配になるし、自分の言動が他の同修を怒らせないかと心配になるのです。こうした感情は、自分がのやるべきことに集中する妨げになったのです。

 これらの問題の根本が「情」にあることに気づきましたが、それを解決する方法がわからなかったのです。ある日、英語をほとんど話せない古い同修と一緒にポスターを貼っていました。店主がいつも彼女にポスターを貼らせることに同意していることに気づいたのです。彼女はずっと笑顔で、ほとんど喋らなかったのですが、一日が終わるころには、彼女が最も多くのポスターを貼った人になっていました。私は驚き、その瞬間、「求めずとも自ずから得る」[2]を思い出したのです。

 自分が成功の追求に執着していることに気づいたのですが、それは私が顕示したかったことと別の形なのです。大法を実証するためのプロジェクトを行うときは、煉功をするときと同じように、雑念があってはならないと思っていました。そのため、ポスターを貼る過程では、求める心や悪い心を排除するように心がけました。すると驚いたことに、歩くスピードが速くなり、さらに、ポスターを貼るのを笑顔で歓迎してくれる店主もいました。

 ショッピングモールで、神韻ブースでのチケット販売を始めたとき、知らない人と気軽に話せるからうまくいくと思っていましたが、しかし、数週間も経ち、人々はブースにほとんど目を向けることはなく、通り過ぎるだけになってしまったため、ショッピングモールでのチケット販売は無理だと思うようになりました。他の同修がチケットを売っているのを聞くと、私は新しい学習者だから許されるし、ただ時間を埋めるためにそこにいるのだと思うのも無理はなかったのです。ある日、クリスマスに何を買おうかと考えていると、ある人が2階からミルクセーキをブースに投げつけ、ノートパソコンにあたってしまいました。自分の正念が足りないせいで、旧勢力に隙に付け入られ、ブースに損害を与えてしまったことに気づきました。それからは、師父や数え切れないほどの神々が私の行動を見てくださっているのだから、常に正念を保つよう自分に言い聞かせ、一分一秒を大切にしなければいけないと思いました。

 ショッピングモールでのチケット販売を通して、チケットの販売は販売能力の問題ではなく、一人ひとりの修煉状態が反映するものだと気づきました。午前中、人々は私の前を通り過ぎるだけでしたが、他の同修が来ると人々は足を止め、おしゃべりをしてチケットを購入していることに気づいたのです。それらの衆生は皆、その同修と縁があり、そしてこの同修には、衆生がチケットを購入することを妨げている悪いものを取り除く力と徳があるのだと思いました。

それ以来、私は毎日早起きして学法をし煉功をするようにしました。そうすることにより、ショッピングモールのチケット売り場で足を止める人が多くなったと感じました。ある時、数人のベトナム人女性が売り場の隣に座っていたので、私は彼女たちに、神韻を知っているかとベトナム語で尋ねました。彼女たちは、「神韻のことはずっと気になっていたが、よく知らなかった」と言いました。そこで私は彼女たちに冊子を見せ、踊り、音楽、衣装、そして神韻について私が理解していることを話すと、彼女たちはすぐに4枚のチケットを購入しました。これは、この1カ月以来、初めて売れたチケットでした。私に関係している衆生は、私がもっとよく修煉できるように、いつもそこで待ってくれているのだと悟りました。

 その後、神韻の公演でボランティアをする機会があり、神韻の美しさと壮大さを目の当たりにすることができました。劇場に足を踏み入れた瞬間、その光景がとても澄んで明るいものだと感じました。私の心は、今まで感じたことのないとても穏やかで集中できるようになったのです。皆が一丸となって無我夢中で協力して取り組んでいました。多くの観客が公演中に涙を流し、笑顔で帰っていくのを見ました。この光景を見て、私は神韻を信じ、その美しさと壮大さをもっと多くの人に伝えたいという決意を新たにしたのです。

 神韻公演の後、ショッピングセンターはとても澄んで明るくなりました。発正念をすると、妨害するものが取り除かれ、衆生がチケットを買いに来るのを感じました。2023年の初日、私は9枚のチケットを売ったのです。皆それぞれに自分なりの障害がありますが、それを克服するための知恵と力を師父が与えてくださったのだと感じました。その後、神韻の公演中に、その日チケットを買ってくれた人たちのほとんどに偶然会いました。この光景を目の当たりにして、修煉者一人ひとりと、かつて救おうと誓った衆生との間には、因果関係があるのだと確信しました。自分の修煉状態を向上させれば、縁のある衆生がチケットを購入し、救われるのだと理解しました。修煉は自分のためだけでなく、縁のある衆生のためでもあります。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/5/27/461250.html)
 
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