97年師父の説法を拝聴したのを回想する
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文/台湾大法弟子 

 明慧日本2012年1月1日)1997年11月、慈悲深くかつ偉大な師父は台湾にこられ、台北と台中で説法されました。法を得たばかりの私は他の学習者と同様に、師父に会いたい、師父の説法を拝聴したいという気持ちが強かったのです。

 当時師父は学習者に迷惑をかけないように、台湾にいらっしゃる事を知らせなかったという。同修の話によれば、その時台北の何人かの同修が交流会を開いて、静かに次の発言者を待っているそのとき、師父が会場にいらっしゃったという非常にうれしい知らせが外から伝えられた。当時台湾の学習者がまだ少なく、師父が台北三興国小(注、ある小学校の名前)で第一回目の説法をされる予定だという知らせが各地に届きました。その数日後、師父はまた台中霧峰農工業学校で第二回目の説法をなさいました。私はとても幸運で、二回も師父の説法を拝聴しました。

 幸運にも二回の説法を拝聴

 思い出せば、師父が霧峰農工業学校にいらっしゃったのはもう午後になってからのことでした。師父に同行した同修の話によると、ある学習者が師父に昼食を召し上がってから霧峰農工業学校に行かれたほうがいいと提案したが、師父は時間に間に合うように、簡単に食事を済ませて、すぐ会場にいらっしゃったという。師父の服装はとても質素で、着ていらっしゃったスーツは古く見えたが、とても清潔で皺があまりなく、髪の毛をとてもきれいに整えていらっしゃいました。私はこれに深い印象を受けました。師父は私たちに急いで説法されました。説法中に師父は休まれることなく、水も飲まずに行われました。学習者が師父に少し休憩でもお取りくださいと言ったが、師父は断わられました。師父はこの時の場がまだ正されていないから、止まってはいけないとおっしゃったことを、その後同修から聞きました。

 初期、師父は公の場で学習者のことを直接に「学習者」と呼んでいらっしゃったが、その何年か後に、学習者の法に対する認識が徐々に深められるにつれて、師父は学習者のことを「弟子」と呼び始められたのです。今回の説法は以前の説法と同じように、師父は質問の時間を設けられて、質問のある学習者にメモを渡すようになさいました。その時参加した多くの人はまだ初心者で、しかもはじめて交流会に参加した常人もいたので、出された質問はとても雑なものでした。しかし、師父は嫌がらず、一つずつに詳しく回答されました。ある人は、中国大陸の人が法を得る過程が、台湾人が法を得るのと何が違うか、という質問をしました。師父は、大陸では人々の神や佛に対する認識がなくて、だから法を得るのが難しいが、法を得た後はとても固く持ち続ける。台湾の人はどんな宗教も自由なので、法を得るのは容易だろうが、専一を守るのは難しいとおっしゃいました。付け加えて、師父は将来大法が台湾で広く伝わるだろうとおっしゃいました。

 師父は疑問に慈悲なる回答

 私が法を得た頃『転法輪』がまだなかったのです。ある一人の同修が『転法輪』を手に入れ、私たちは順番にそれを読んでいました。それから、青い表紙で繁体字の『転法輪』が香港で印刷出版されたのです。本の一番前の表紙に一つの大きな法輪の図と何個かの回転している小法輪の図があって、そして、裏表紙にまだ蕾で咲いていない蓮の花が写されていました。数年後、外国の学習者から『転法輪』の裏表紙にある蓮の花が咲いたよと聞いて、あわてて家に帰って、本棚にある『転法輪』を取り出して見たら、蓮の花が本当に咲いたのです!はじめて『転法輪』を手に入れた当時、私はなぜ蓮の花がまだ蕾になっているかと不思議に思ったことがあります。

 当時台湾各地でまだ煉功点がなく、学習者の間では全体で交流するという環境に成っていませんでした。だから、私は『転法輪』を読んでいたとき、以前の習慣で、読みながら線を引いたのです。しかも、本を読むのが真面目で重要なポイントを整理できたとも思いました。しかし、法の極めて厳粛であることが少しずつにわかってきたので、心中とても不安でした。だから、師父にどうすればよいかと聞きたかったのです。交流会のとき、休憩中、師父は休憩に行かれるのではなく、講壇から降りていらっしゃいました。それを見た私は、急いで師父の方に行きました。その時、周りはとても静かで、この空間の中にただ師父が私の方に歩いていらっしゃって、そして私も師父の方に迎えに行くだけと感じました。

 『転法輪』では、多くの人が師父と握手してもなかなか話さないと書かれています。だから、私は師父の前に行っても師父と握手する勇気がなかったのです。しかし、慈悲ある師父は自ら手を出されて、私と握手をなさったのです。握手した瞬間は、最初二人だけの空間しか感じていなかったが、突然師父の周りにたくさんの学習者がいて、師父と私の距離が引き離され、周りの音もいきなり大きくなったのです。周りの音が大きいので、私が師父に質問をしても、師父にはっきり聞こえていませんでした。そして、師父は手を耳の方に持っていって私の質問を一生懸命に聞こうとされました。それを見た周りの学習者たちも静かになりました。私は師父に本に線を引いてしまった、どうすればいいですかと聞きました。師父は慈悲に「大丈夫ですよ、これから引かなければいいです。」と答えてくださいました。師父の話を聞いて、私も安心し回りにいた学習者たちも私のことを喜んでくれました。

 今思い出せば、背の低い私に比べて、師父は背が高くて偉大に感じました。でも、師父はとても優しく親しみやすかったのです。また、師父の穏やかさと慈悲、とてもすばらしい場を感じました。今回のことで、師父は実に弟子たちが何を悩んでいるのかがすでにわかっていらっしゃって、そして慈悲で私たちに問題を解決しようとなさっていることがわかりました。師父の掌はとても厚くて柔らかかったです。今考えて見れば、その時のチャンスを大切にせず本当に後悔しました。もしもう一回チャンスがあれば、私は必ず両手で師父の手をしっかりと握手したいと思います。

 神聖かつ超常的な大手印

 印象が一番つよかったのは、以前の説法と同じように、ある学習者が師父に大手印をしてくださるようお願いのメモを出しました。師父はメモを見て、時間があればやるとおっしゃいました。交流会が終わった後、師父は私たちに大手印を行うとおっしゃいました。これを聞いた私たちは非常に興奮して拍手しました。師父は机が安定しているどうかと手で机の両端を押してから、机の上に座り座禅して手印を始められました。

 師父の手印は驚くほどとても美しくて神聖なものでした。時間が少し経ってから、私の耳にある音が聞こえてきました。この音が少しずつ強くなって、体育館がドカンドカンという音に包まれました。その時、私は思わず頭を上げて、体育館の天井そして周りを見ました。確かに建物が震動していて、しかも何分間も続いていました。私はこの光景を他の学習者もみんな見たに違いないと思ったが、聞いたところ、このような感受がある人がいれば、無い人もいました。

 交流会の前に第五式の功法を煉るとき、入静の状態に一回も達したことはなかったです。今回師父の大手印の加持によって、その晩座禅するとき、頭の中に何も浮んでこなかったです。しかし、その後の日から、また少しずつ静かになれなくなって、そして以前のような入静できない状態に戻ってしまいました。

 師父の説法を拝聴してから何年間も経ちましたが、師父の素朴そして他人を思う気持ちはいまだに鮮明に覚えています。今回の人生の中に、幸運で偉大かつ慈悲なる師父と一緒にいることは、正法時期の大法弟子にとって最も貴重で光栄です。この回想は皆さんにぜひ読んでいただきたくて、縁のある人にぜひ法を得てほしいと思っています。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2006/3/2/121911.html)     更新日:2012年1月1日
 
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