「病業の関」に直面した際の求める心について
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2024年11月3日】「病業」の問題にどう対処するかについて、多くの人がそれぞれの経験と認識を持っています。うまくいった場合もあれば、うまくいかなかった場合もあります。特に年配の同修が病業の関に遭遇すると、長引いてしまうことが多く、師父が何度も時間を与えてくださっても、乗り越えられず、最後には旧勢力によって命を奪われてしまうことがあります。このような教訓は非常に深刻です。

 明慧ネットには毎日のように「病業の関」をどのように乗り越えるかについての記事が掲載されています。では、なぜこの「病業の関」を乗り越えるのがこんなにも難しいのでしょうか? 長年にわたって同修が病業の関を乗り越えるのを助けてきた経験や、年配の同修が病業の関を乗り越えることを観察した結果、また自分自身の経験から、多くの原因があると考えます。もしこの問題を「病業の関」として、ただ「病業」の問題を解決するためだけに捉え、「病業の関」を乗り越えるために「病業の関」を乗り越えようとするならば、それはまた求めるという執着心になります。

 私は、「病業の関」とは長期間積み重なった「心性の関」であるという考えに非常に賛同します。この「病業の関」をうまく乗り越えるには、まず心性の角度から問題を解決する必要があります。つまり、いかにして心性を向上させ、修煉の次元を高めるかということです。ただし、単に執着心をいくつか見つけ出すだけではなく、根本から「求める」という執着を取り除く必要があります。

 師父は次のように説かれました。「あなたは求める心を抱いて、それのために来ているのですか? あなたが何を考えているのか、他の空間にいるわたしの法身は何もかも知っています。二つの時空の概念が違っていて、他の空間から見ると、あなたの思惟が形成されるのは非常に緩やかな過程です。あなたが考える前に、法身は察知できるので、良くない考えはすべてよしたほうがいいのです」(『轉法輪』)

 天上には無数の目があります。天上の神々や旧勢力にも、私たちの執着心がはっきり見えています。求める心は、旧勢力が大法弟子を迫害するための最高の口実です。ここで私は「病業の関」を乗り越える際に持つ求める心についての見解を述べ、同修と切磋琢磨したいと思います。法理に則ってない点があれば、同修の慈悲深いご指摘をお願いします。

 一、苦をなめたくない安逸を求める心

 法理において、皆は修煉するには苦を嘗め、代価を支払わなければならないことを知っています。しかし、実際の修煉において「苦を嘗めるをもって楽とす」(『洪吟』)ができている同修はどれだけいるでしょうか? 遭遇した良いことも悪いこともすべて良いこととして受け入れられる同修はどれだけいるのでしょうか? 魔難に遭遇すると、多くの同修は「なぜまたトラブルに遭遇したのか」と考え、苦しみを避けようとします。

 特に年配の同修は、どこかが痛くなったり、調子が悪くなったりすると、耐えられず、「学法煉功に影響がある! 真相を伝え人を救うことに影響がある! 家族がどうしても私を病院に送ろうとしている! 最大限に常人に符合しなければならない!」等々を口実にして、注射したり、薬を飲んだり、入院したりしています。さらには「中医学は伝統医学であり、漢方薬は薬ではない、推拿は治療ではない」などと自分を欺く奇怪な言い方をする人もいます。こうして身体が楽になると、難を乗り越えたように感じますが、実は業力を一時的に抑え込んでいるだけで、次にまた再び出てくることになります。多くの年配の同修において「病業」の状態が長引く主な理由の一つがこれです。

 ある日、私は歯痛が起こり、歯茎がひどく腫れて、頬まで腫れてきて、水を飲むことも困難でした。学法と発正念の時も心が落ち着きませんでした。「歯の痛みは病気ではないが、痛み出すと死にそうだ」とも言われますが、痛みを和らげるために私は冷水を口の中に含みました。少しは効き目がありましたが、それも長くは続かず、最終的には全く効かなくなりました。深夜まで耐え忍んでいたところで突然、「大法弟子は生死をも放下しなければならないのに、痛みを恐れている場合ではない」と思い至りました。それでベッドに横たわり、痛かろうが痛くなかろうが気にせず、「法輪大法は素晴らしい」「真・善・忍は素晴らしい」と心の中で何度も唱えたところ、眠りに落ち、翌朝には痛みも腫れもすっかり引いていました。

 地元には90歳を超える年配の同修がいます。ある日、彼女はトイレに行くときに滑って、脚を痛めました。彼女の脚の骨は3箇所突き出ており、骨折の疑いがありましたが、彼女は激痛をこらえ、自分でベッドに這い上がり、子供たちには何も言いませんでした。同修がそれを知り、彼女の家に行って一緒に学法し、正念を発しました。彼女は骨が折れているのかどうか、痛みがあるかどうかも気にせず、煉功の時間になれば煉功をしました。1週間以上経った後、彼女の足は回復し、歩けるようになりました。

 また、80歳を超える年配の同修がいますが、ある日突然下痢の症状が現れ、どんどんひどくなり、二昼夜続きました。彼女は大法と師父を信じ、何の問題もないと確信していました。彼女は子供たちに影響されないように彼らには知らせませんでした。下痢が止まると、彼女は学法し、煉功し、正念を発し続けました。翌日、彼女は夢の中で冥界に行き、閻王殿に入りました。閻魔大王は彼女を見て、「お前は私の管轄ではない、帰れ」と言いました。それで彼女は体の向きを変えて戻ってきました。目が覚めると、彼女は師父が助けてくださったことを理解し、翌日に目が覚めると下痢が止まり、元気を取り戻し、何事もなかったかのようになりました。

 私は次のことを実感しました。遭遇した難を大したことではないと捉えると、それは本当に大事にならないのです。「『修は己にありて、功は師にあり』なのです」(『轉法輪』)。師父はあなたの心性が向上しているのを見て、あなたが負うべきでない業力を取り除いてくださいます。

 二、「病」を恐れることが「病」を求める心を招く

 一部の年配の同修は、身体に何か症状が出ると「以前の病がまた出てきたのではないか」と心配したり、また病があるという心を放下できない同修もいます。病院で検査を受けると、高血圧や血糖値が高い、どこかに何かができたとか、炎症があると診断されることがあります。

 ある日、病業の関を乗り越えようとしている同修の家に行き、交流しました。その同修の母親同修が私に尋ねました。「私の息子は『脳萎縮』になったのではないでしょうか?」。私は「師父が病の根を取り除いてくださったのに、どこから脳萎縮が来るのでしょう?」と答えました。すると、その同修の妻同修が言いました。「漢方医(同じく同修)がそう言ったのです」。この言葉を聞いて、私は何を言えばいいのか分かりませんでした。師父を信じるのか、それとも医者を信じるのか? 実際、「病」と呼ばれるものはすべて自分が求めたものなのです。

 私もかつてこのような経験がありました。ある日、刑務所内でトイレに行った際、突然頭がくらくらし始めました。私は倒れないように頑張りました。入所時の身体検査で血圧が220/120 mmHgもあり、「脳血栓を発症して重病を理由に医療仮釈放で家に帰ることができる」と考えました。刑務所の医師のところに行き、血圧を測ったところ、血圧が非常に高く、刑務所は私を病院に送りました。翌日には本当に半身に麻痺が出てしまい、しっかりしゃべることもできませんでした。地方病院でCT検査を受けると脳に血栓があると診断され、刑務所管理局の病院に入院することになりましたが、私はそれが全て虚像であると分かっていたので、2日目には床に下りて歩けるようになりました。後になって、地元の国家安全保衛大隊と司法所が私の受け入れに同意しなかったため、「病気のための医療仮釈放」は実現しませんでしたが、私は真相を伝え、三退を促す自由な環境を手に入れることができました。私はほぼ全ての受刑者に真相を伝え、三退を勧め、多くの刑務官も含めて三退させました。この経験から、「私たち大法弟子はエネルギーを持っており、一念の違いが異なる結果をもたらす」ということを体得しました。

 三、師父や同修に頼り、求める心

 一部の同修は何か問題が起こるとすぐに師父に助けを求めます。危険に遭遇したり、何か大きな難に直面した際に師父の加護を求めることは間違いではありません。しかし、大小問わずすべてのことを師父に頼り、もし師父が私たちの問題をすべて解決してくださったら、私たちは何を修めるのでしょうか? ある日、ある同修が私の家にやって来て、「ある同修が私に聞いてほしいと言っています。彼女は法を学び、正念を発し、真相を伝えている、また師父にも解決して下さるようにお願いしたのに、なぜ下肢のむくみが改善しないのでしょうか?」と言いました。私はその同修に返答しました。「その同修に自分を本当の修煉者だと思っているのかどうか、と返してください。師父が面倒を見てくださるのは本当の修煉者だけです」

 同修に病業の状態が現れると、他の同修がその同修の家に来て近くで正念を発し、一緒に交流して、何の執着心が残っているのかを確認します。その過程で同修が自分を高めることは重要であり、効果的です。しかし、そうでない同修もいて、彼らは同修に頼って「病」の問題を解決してもらい、「病業の関」を乗り越えようとします。

 ある同修は、刑務所で迫害を受けて腹水の状態になりました。彼女は自宅を集団学法の場、資料を分配する拠点にしました。同修たちを招いて学法もし、「病業の関」を乗り越えられるかのように見えました。その間、邪悪な妨害が何度もあり、一度学法中に邪悪に連行されることもありましたが、彼女は心性の問題を見つめ直すことができませんでした。私も何度か彼女のところに行って交流しましたが、毎回同修たちが「利尿効果がある」とか「身体を補う」といったものを持って来ることを目にしました。私が彼女に、自分の正念でこそその難を乗り越えられるとアドバイスすると、彼女は認めてくれました。しかし、彼女は求める心を手放せず、病気の心を捨てることができませんでした。師父が何度も機会を与えてくださったにもかかわらず、その状態が数年続き、最終的には旧勢力に命を奪われてしまいました。

 四、「病」がなくなることを求めて「三つのこと」をする心

 一部の同修は、病業の状態が現れると学法や発正念、煉功を長時間行い、真相を伝えに外出することを続けます。中には、両手で杖をつき、病業の状態で真相を伝えに行こうとする人もいます。本来、三つのことを行うのは大法弟子として当然のことですが、出発点が正しくないのです。病を治したいという強い心で三つのことを行っていたため、長い時間が経っても「病」は治らず、師父に不満を抱く人も出てきますが、これは非常に危険です。旧勢力はそこに付け入り、「病」がさらに長引くだけでなく、他の魔難が現れたり、時には命さえも脅かされる可能性があります。

 私たちの学法グループには80代の年配の同修がいました。皆から三つのことをよく行い、よく修めていると認められていました。彼女は邪悪に拘束され、「保釈」中に二度も転倒し、両足を捻挫しました。その後、車椅子で移動することになりましたが、同修たちが彼女の家を訪れて学法をし、彼女自身も家で学法や煉功に励んでいました。さらに、彼女は杖をついて真相を伝える活動にも頻繁に参加していました。しかし、時間が経つにつれて、足の具合は一向に良くならず、彼女の中に不満の気持ちが芽生えました。「私はこんなに多くのことをやっているのに、どうしてこうなるのか?」という思いです。結果的に、彼女は二年間その状態が続き、80代で車椅子で移動しているのにもかかわらず、最終的には刑を言い渡されて、刑務所に送られて迫害されることになりました。

 師父はこう説かれました。「一部の学習者は病業の関を乗り越えられません。重大な過ちばかり考えないでください。大きな過ちがなく、法に対して確固たる信念を持っているとあなたは思っています。しかし、あなたはそれらの小さいことを軽視しないでください。邪悪は隙に乗じてくるのです。多くの学習者は小さい過ちのせいで命まで失いました。本当に非常に小さいことが原因だったのです。修煉は厳粛であり、漏れがあってはならないからです。あなたはそれらのことを長い間修めていません。小さいことですが、あなたは長い間重視していません。これで大ごとになりました。多くの人がこれで命を失いました」(『各地での説法十三』「二〇一五年米国西部法会での説法」)

 修煉は非常に厳粛であり、ほんの少しの虚偽も許されません。真剣に取り組む必要があります。大法の修煉者として、生死をも放下する覚悟がなければならないのに、「病業」を恐れるでしょうか? 私たちが自分自身を真の修煉者として考えるなら、師父はすべてを私たちのために決めてくださいます。どんな関も難も乗り越えることができるのです!

 
(中国語原文:https://www.minghui.org/mh/articles/2024/10/29/484408.html)
 
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