(明慧日本)
文/海外大法弟子 樹祺
週末の朝、筆者が国家公園で西洋人の同修と一緒に煉功している様子 |
一、13年間の白血病の苦難
1.身体の面
私は生まれた時、体重が2キロ未満しかありませんでした。医者は私がそう長く生きることができないと判断し、その場で私の母親に「もう一人産んでもいいですよ」と言いました。医者に言われた通り、私は非常に幼い頃から、一日に何回も鼻血が出て、私はいつも熱く流れ出る血の塊の中で驚いて目を覚まし、喉には常に生臭い血の匂いが漂っていました。毎日、私は父親が用意してくれた小さな綿のボールが入っている沢山のビニール袋と雲南白薬(漢方薬)を持って通学していました。私の教科書、服、枕、お布団、シーツの上など、時には家の壁にも、洗っても取れないほどの血の跡が付いていました。また、私は非常に重い遺伝性副鼻腔炎も患っており、しかもとても幼い頃から近視で眼鏡をかけ、記憶力もひどいものでした。
7歳の時、顔の七つの穴から同時に血が流れ出たため、私は入院しました。その時やっと、私が白血病を患っている事を知りました。私は入院、転院を繰り返し、家も私の病気治療に大金を使い果たしました。のちに、ある占い師は、私が13歳までしか生きられないと言いました。体は極度に衰弱し、私は太陽の下で10分ほど立ったらもう倒れてしまいました。その時、内臓の全てが苦しく、血の流れも悪く感じ、全身が麻痺し、息苦しくて呼吸すらできませんでした。長年、私の成長の友とは各種の薬品とホルモン剤でした。風邪を引くと、濃い薬の臭いが私の体から出てきて、とても堪え難いものでした。
小学校6年に入り、私の体は極度に衰弱し、うまく歩くことができず、呼吸もまともにできなくなりました。学校は家のすぐ近くにあって、私はいつも人に担がれて家に帰るか、あるいは付近の病院に担がれて行きました。私は病気のため人生に絶望し、性格も非常に弱いものでした。その時、私は生きることに何の意味もないと思っていました。
体力をつけるため、私はわざわざ道場まで武術を習いに行きましたが、かえって体が更に弱くなり、準備運動のランニングをするだけで倒れてしまい、全身の痙攣を起こしてしまいました。その後、いくつかの気功を習ったり、病気治療のためと有料の名字変更なども試してみました。しかしその全てが何の足しにもならず、かえってもっと悪くなりました。
2.学業の面
小学校一年の時、当時7歳だった私は、白血病が原因で初めて勉学の機会を失い、常に病院通いを強いられました。
唯一、私に悩みを忘れさせてくれたのが絵を描くことでした。これは生まれ持った才能で、私はいたる所で心の中で憧れていた、生命というもの素晴らしさをカラーのクレヨンで表現するのが好きでした。例えば、雨上がりの虹と清々しい大地の風景などを描いたりしました。
再び学校に戻りましたが、私は病院へよく通い、遅れている授業も補う気がなかったため、成績も悪く、周囲の物事にも関心を持ちませんでした。
二、大法を修煉し始めてからの私
1.身体の面
1997年の年末か、98年の初めかのある日、仕事から帰ってきた母親はある録音テープを私に聞かせてくれました。その中の先生の声は非常に若く、20代であるように感じ、声がよく響き、澄みきっていて、貫通力のある声でした。今でもはっきり覚えていますが、先生の初めのお話を聞く時から、その声を聞く度に私の、いつも不調な内臓が振動を受け、瞬時に気持ち良くなりました。14個の「済南講法」のテープを、私は一週間で聞き終え、毎日テープを聞いてから母親と一緒に功法の動作を学びました。この一週間のうち、私は一回も鼻血を出しませんでした! 私の左腕は三歳の時にけがをしたことがありましたが、第二の功法を煉る時、腕を30分も挙げ続けることができたのは、自分でもびっくりでした。また、いつの間にか副鼻腔炎も治りました。何の希望をなく、生命の終わりに近づいていた一人の女の子が、李洪志先生に救われました。母親はよくこう言います。「師父がいなければ、大法がなければ、あなたは今日まで生きて来られませんでした! 師父があなたを救いました」その時から、私は各種の薬やホルモン剤と別れ、本当に無病で全身の軽い感覚を覚えました。
法輪功は中国大陸で人から人へ、伝聞によって広がりました。法輪功は組織を持たず名簿もなく、どんな広告も宣伝もしていませんが、1992年の師父の説法の始めから1998年当時に政府が行った統計までに、中国にはおよそ七千万から一億人程の修煉者がいました。1998年、人民代表大会の老幹部達が行った法輪功に関する調査では、「法輪功は国家にも国民にも、百利あって一害無し」との結論に至りました。法輪功は無料で教えられている為、短期間で私は健康を得ることができ、私の家庭も経済的負担を負わずに済みました。現在は、世界各地のどこでも、法輪功の書籍、音声資料などを無料でダウンロードすることが出来ます。
ここで、私は師父に叩頭して謝りたいことがあります。師父と大法が冤罪を受けて既に12年が経ちますが、私はずっと自分に起きた奇跡を公にせずにいました。これは私の修煉過程の手落ちでした。どうかこの意気地なし、物事をわきまえていない弟子を許してくださるよう、師父にお願いしたいです。私の真実の叙述によって、縁のある人の頭に注ぎ込まれている師父と大法への虚言が消される事が出来れば幸いです!
2.学業の面
大法を知って、私の世界観は大きく変わり、私の悲観的でもろくて弱い性格も変わりました。のちに様々な難を経験した時、皆は私のことをすごく強い人だと思いました。特に法を得た初期、中学生だった私の成績がクラスの中でビリから上位に上がりました。多くの人は私がカンニングしたと考えていました。しかし師父と、母親は知っていました。全てが私の努力のたまものであり、大法が与えてくれた奇跡でした! 政治という(60点しか取れていない)科目を除き、他の科目では全部90点以上を取りました。私は楽観的で自信満々になり、主体的に他人を手伝うようになりました。私はいつも「真、善、忍」を基準に良い人になることを念頭に置き、生まれて初めて気楽に楽しく生きることを実感しました。
このような時、小学校の絵を教える先生が私の所を尋ねてきて、「あなたは美術の方面で才能を発揮できれば望ましいです」と言い、彼女自身はもう私に教える能力がなく、他の良い先生を見つけるようにと言われました。その後、お父さんは省都で最も良い先生を見つけ、その先生との面接した後、私は彼の弟子になりました。後になって分かったのですが、その先生はずっと弟子を受け入れないつもりで、特に女の子を拒んでおり、私が特例でした。私が楽観的で、落ち着いていて、本当に絵を描くことが好きなので、教える意義があるだろうと判断され、決められたそうです。しばらくして、その先生は私に非常に高い人生目標と最も良い勉学の目標を設定してくれ、綿密で厳格な計画をしてくれました。私はそれを一歩一歩、着実に実行してきました。自分の進歩に自信を得た私の姿を見て、画家と彼の友たちも喜んでくれました。彼らは私の生活に関心を持ち、私たちは同じ家族のように日々接し、私は画家をお爺ちゃんと呼び、彼の奥さんをお婆ちゃんと呼ぶようになりました。
この時期が私の人生の大きな転換期でした。師父がいなければ、大法がなければ、私は生き続ける事が出来ませんでしたし、病死か自殺で人生を終え、以後の人生などあるはずがありませんでした。師父がいなければ、大法がなければ、私は健康な体を得る事が出来ず、正常な人として生きる事が出来ませんでした。師父がいなければ、大法がなければ、私の性格も変わることがなかったのです。中国人が良く言いますが、「山河は変えられても、人の本性は改めがたい」のです。しかし、私は多くの頑固で良くない性格を改めました。修煉の過程で、私は専門分野の良い先生と出会うことが出来ました。これらの全ては大法の師父が私の運命を変えてくれたお陰です!
(続く)
(English: http://www.clearwisdom.net/html/articles/2011/11/2/129151.html) 更新日:2011年11月9日