12年間、遼寧省の法輪功修煉者一家が遭遇した迫害(二)
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 2001年5月22日の夜、石さんは法輪功の資料を貼りに出かけたところ、待ち伏せしていた警官に捕まえられ、派出所へ強制連行された。警官は拳で殴ったり、足で蹴ったりして、石さんに自白を強いた。翌日、姚家留置場へ移され、一カ月以上監禁された。留置場で、石さんは受刑服の着用と監禁規則の暗記を拒否した。警官は始終、石さんを殴り、一カ月間両手に手錠をはめて、地面に固定した。石さんはその後、1年の労働教養を言い渡され、夜中の3時ごろ、車に乗せられ、馬三家教養院へ送られた。馬三家教養院は、石さんが迫害されて、両足で立つことも、歩くこともできないのを見て、健康診断の結果、入所を免れた。

 しかし、石さんを連れて行った警官の陰謀により、馬三家教養院はまた石さんを入所させた。手続きをしていた警官は、彼女の自宅から奪ったお金を受け取るサインをするよう、石さんに言った。サインする用紙には 5700元と書いてあった。しかし、彼女がサインした後、警官は4000元しか渡さなかった。石さんが警官に、「どうして1700元少ないのか」と聞くと、警官は「おまえを送って行った旅費、食事代はすべておまえが支払わないといけない」と答えた。石さんは「あなたたちは強盗のようだ。私を迫害しながら、また迫害に使ったお金を私に支払わせるとは」と言った。警官らは何も言わなくなった。

  2002年10月のある朝、石さんは野菜を買って帰宅したところ、家に入る寸前に待ち伏せしていた警官に無理やりパトカーに乗せられた。捷山派出所に連行後、警官は罪をでっち上げた後、石さんを姚家留置場へ強制連行し、一カ月間監禁した。監禁されている間、一週間断食で迫害に抗議した。警官は4、5人の男性受刑者に指示し、石さんをベッドに押し倒し、口をこじ開け、強制的に灌食を行った。また、靴の底で殴った。その後、彼女は労働部屋に移され、半月間、手錠で両手を地面に固定される迫害を受けた。その後、馬三家教養院に送られ2年間監禁された。馬三家教養院で、警官は転向した人たちに指示して拷問させ、石さんは指にボールペンの芯を刺され、睡眠も許されなかった。迫害により、心筋の血液不足と心臓の衰弱を起こし、4カ月間、下の階に下りることができなかった。警官と大隊長は人に命令して、石さんの髪の毛を引っ張ったり、顔を殴打したり、脚で蹴ったりさせ、また生理のときでも、トイレに行かせなかった。

  2008年9月、石さんはある法輪功修煉者の自宅に行ったところ、警官により虎タン派出所に強制連行された。この数年間にわたる迫害により、身体が弱くなっていた石さんは突然気を失い、何も分からなくなった。しかし、このような状況下でも、警官はやはり夜中に彼女を姚家留置場に移し、1カ月間監禁した。その後、また馬三家教養院に2年間不当に監禁した。石さんは教養院の審査規定に協力しなかったことを理由に、警官らに殴られたり蹴られたりした。警官は石さんの手を無理やり引っ張って、規定にサインさせた。

  2010年9月9日、労働教養期間が満期になったが、中山区610弁公室は石さんの家族に通知せず、直接、撫順市羅台山荘洗脳班へ連れて行き、20日間迫害してから帰宅させた。2008年、石さんは再び強制連行された。82歳の姑がすべての家事を行い、孫の面倒を見なければならなくなった。姑は虎タン派出所に正義を求めて、善良な嫁を帰すように要求したこともある。老人は「息子の嫁は冤罪を着せられた、監禁してはならない」とため息をついた。姑は生活の重圧を受け、特に息子の嫁が早く帰ってくるのを待ち望み続けており、歩いてもふらふらし、身体は日々やつれていった。

    三番目の姉・曲へイさんが迫害され死亡

  曲さんの三番目の姉・曲へイさんは1955年8月11日生まれ、大連市金州区亮甲店鎮出身。市郵政局金州支局亮甲店の営業員だった。1997年に法輪功の修煉を始めた。1999年に中共による法輪功への迫害が開始して以来、曲ヘイさんは6回強制連行され、2006年5月22日に迫害により無実が晴れないままこの世を去った。享年51歳。以下は曲ヘイさんが受けた迫害である。

 1999年10月、曲さんは北京へ陳情に訪れたが、短期間監禁され、一カ月後、勤務先により公職を剥奪された。

 2000年7月、曲さんは2年間労働教養を強いられ、馬三家教養院に送られて迫害された。2001年5月、馬三家教養院を出され、その後仕方なく路頭に迷うようになった。

  2001年8月、曲さんは馬三家教養院に弟の嫁・石さんの見舞いに行った際に、現地で法輪功の資料を配布していたところ、タクシー運転手に密告され、馬三家の現地の警官に強制連行された。曲さんは断食で迫害に抗議し、数日後、金州区留置場へ移された。その間、曲さんは2カ月以上断食を続けて、最終的に釈放された。帰宅して一週間後、現地の警官に再び捕まえられることを避けるために、曲さんは再び路頭に迷うようになった。

  2003年5月の夜10時すぎ、亮甲店派出所の警官は曲さんの自宅に入り込み、曲さんがいないことに気づくと、曲さんの夫を捕らえて派出所に連行した。曲さんはそれからまた路頭に迷うようになり、食べることとも、泊まるところも決まらず、非常に苦しいときを過ごした。1日に一回も食事ができないときもあった。一度、曲さんは大連葵英街にある80歳を過ぎた母の自宅に行ったところ、亮甲店派出所、葵英派出所の10数人の警官が曲さんを強制連行しようと待ち伏せしていた。曲さんは2階から飛び降りて、危険から逃れようとしたところ、転んで脊椎に怪我をした。この状況下でも、人間性のない警官は曲さんをパトカーで運んで行った。その夜、警官は曲さんの命に危険があるのが分かると、怪我した彼女を秘かに母親の自宅の外まで運んで投げ捨てた。幸い隣人に発見されたため、曲さんの母親と曲連喜さんの息子が曲さんを家に背負って入った。曲さんは腰を持ち上げることができず、ただ頭ははっきりとしていて、その後とても長い間、腰を曲げて歩いていた。

 2004年10月、曲さんは街の店に行ったところ、皆の前で、亮甲店派出所の警官に強制連行され、再び馬三家教養所に送られた。健康診断の時、尿液が薄い粥のようになっていたため入所を免れ、自宅に帰された。

 2006年5月22日、曲ヘイさんは長期にわたり、警官らに嫌がらせを受け続け、迫害によりこの世を去った。

 
(中国語:www.minghui.org/mh/articles/2011/10/16/247827.html)     更新日:2011年11月15日
 
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