文/中国の大法弟子 法生
(明慧日本)
迫害に動じず修煉し、真相を伝え続ける
1999年の7.20以降、師父と大法への邪悪な誹謗中傷、弾圧が始まりました。テレビなど至るところで嘘や誹謗中傷が溢れて、私は心の中でとても辛く、言葉にできないほどでした。私は煉功点へ行ったことがなかったため誰も私を知らず、住民委員会と警察署も私を調べに来ませんでした。私は修煉者と連絡を取ると、以前知っていた何人かはもう煉功していないと教えてくれたので、私はしかたなく自分ひとりで家で煉功し法を勉強していました。当時、私は状況を見てみようという考えを持っていました。その後、私は師父が発表した経文、「メディアを利用して気功を批判する人がいると、修煉者の中で一部の人はすぐ動揺して修煉をやめてしまい、メディアを利用した人が佛法より高明であるかのようで、他人のために修煉しているようです。また、圧力の前で恐れて修煉をやめた人もいますが、このような人は正果を得ることができるのでしょうか? 肝心なときに、佛まで裏切ってしまうのでありませんか? 恐れる心は執着ではありませんか? 修煉とは、まさに大波で土砂を洗い流すことで、残ったものこそ、金なのです」(『精進要旨』 「誰のために修めるのか」)を読んで、本の中の師父の写真の前で、「私は必ず最後まで修めます」と言いました。
その後偶然に一人の修煉者と出会い、一緒に相談して「法輪大法はよい」、「法輪大法は正法である」、「私の師父への冤罪を晴らしてください」と、当時この位の法理しか分かっていなかったので、これらを紙に書いて夜に出かけて貼ってきました。これが私たちが法を実証することの始まりでした。ある日同修は法輪大法放送局が作った真相テープを持ち帰ってきて、これを配布できると言いました。お昼に私は家でテープを複製し、夜に二人で配りに行きました。北京で知り合った済南と青島に住む同修にも送って、彼らはとても喜んでいました。
2000年末、ある同修から電話がかかってきて、元旦に警察が家宅捜査に来るのが心配だから真相資料を私に保管してほしいと言いました。同修は電話を切ってから、すぐに持って来ました。同修を送った後、私は資料を配りに行こうと思い、少し整理して夜に出かけて全部配りました。
翌日610弁公室のリーダーと警官らが自宅に来ました。その時やっと、同修の家の電話が盗聴されていたことがわかりました。彼らが家に入ってきて最初の一言はまず、「あなたも煉功しているのか」でした。私は「そうですよ」と言いました。相手は「すでに取り締まられていることが分かっていますか?」と聞いてきたので、私は「知りませんが、家で煉功することで何の法律を犯したのですか」と言い返しました。彼らは「昨日送ってきたチラシはどこだ?」と言いました。私が「誰も私にチラシを渡していませんし、私も持っていません」と言いました。彼らは家宅捜査を始めましたが結局一枚も見つけられず、しかしテープを見つけてテープレコーダーと大法の書籍を一緒に持って行ってしまいました。私も警察署に連行され、脅されたりして半日間尋問されました。私が明確に態度を示すと、彼らは腹を立てて私を拘留すると言い出しました。彼らは私に署名をさせようとしましたが、私が拒否したので、警官が署名しました。拘留所への道はとても込み合っていて、彼らはパトカーのサイレンを鳴らして通ろうとしましたが、私がサイレンを鳴らさないようにと願うと、本当にサイレンが鳴りませんでした。当時、まだ神通力の作用とは知りませんでした。610のリーダーは「先週40万元で買ったばかりの新車なのに、もうサイレンが壊れたのか」と悪態をつきました。後ろに座っていた私は言いました。「パトカーは悪い人を捕まえるためのものなのに、善い人を捕まえているのだから、鳴るはずがありませんよ」610の頭目は怒り心頭といった様子でした。私は16日間拘禁され、娘が釈放を求めてくれたため家に帰りました。しかし、それから私の名前は610弁公室のリストにのり、彼らの重点監視対象となりました。
正月中、居民委員会と地方の警察は毎日家に来て、北京へ行かないように見張っていました。正月が終わってから、見張っていた警官は「元々家族全員が自宅で正月を迎える予定だったのに、私のせいで帰れなかったと」文句を言いました。私は「江××に言いなさい。我が家もあなたたちのせいで良い正月を迎えることができませんでしたよ」と言いました。
段々と、今まで法を実証する活動に参加してきた同修たちと連絡を取れるようになり、若い同修が作った資料を、私は外へ貼ったり配ったりして真相を伝えました。2001年10月2日、同修から一つ2メートルの横断幕をもらって、電車に乗って『洪吟』を暗記しながら北京へ行きました。切符を買う時、一人の私服警官に北京へ行く目的を聞かれたので、娘を見に行くと返事しました。身分証明書を見たいと要求されましたが、「娘を見に行くのにも身分証明書が要るのですか? 旅館に泊まるわけでもないのに」と言うと、彼はあきらめて質問しませんでした(私の身分証明書は家宅捜査のときに610弁公室に持っていかれました)。北京の天安門広場に着いてみると武装警察だらけで、旅行客は一人もいませんでした。彼らに捕まえられてはならず、知恵を持って行なわないといけないと考え、私は広場を2周巡って発正念をし、東の方の金水橋へ繋がる出口辺りの手すりに「法輪大法はすばらしい」と書かれた横断幕をかけました。通行人が近づいて来て見ている間に、私はバスに乗って午後の電車で無事に帰宅しました。帰りの車外の風景はとてもすがすがしく見えました。
2001年末、ある同修は連行され、心性を守れずに私を含め18人の同修の名前を言いました。家宅捜査を受け、数台のパソコンとプリンタが没収されました。尋問を受けた際、私は断固として彼らに協力せず正念を発し続けました。私は一晩中尋問を受けました。私を尋問していた警官がお腹を押さえているので、どうしたのかと聞くと、「胃が痛い」と言いました。私はこれが発正念の作用だと知りませんでした。彼は私に「天安門焼身自殺」についてどう思うかと聞いてきましたが、私は迫害が始まってからテレビを見ておらず、常人の議論も聞いていないので、天安門焼身自殺についてよく分かりませんでしたが、ただそれが間違いであると信じていました。私は彼に「彼らは絶対に大法を真に修めている人ではなく、破壊する人なのです。法輪功を修煉する人は殺生をしません。自殺も殺生です」といいました。このように不法な尋問が行われましたが、彼らは最後まで証拠を見つけられませんでした。私は言うべきではないことを邪悪に言ってはならないと分かっていました。
彼らは大法弟子が「真善忍」を修めていることを利用して尋問のときに、まず「法輪功は「真善忍」を強調するから、あなたたちは本当の話を言わないといけません」と言いました。騙されて全部言ってしまう同修もいて、他の同修の情報も提供してしまい、提供した証拠は一冊の本になるほどであるにも関わらず、釈放されずかえって更に重い判決を言い渡されました。
警官らは私に、「あなたは彼ら(同修)と違い、あなたは何もしていません。北京も行っていないので、サインすれば帰れます」と言いました。私は「サインはしません。法輪功は必ず続けて行きます。大法は私たちに善い人を目指すように教えています。お金も使わずに数年来の病気も治りました。私は師父に会ったことはありませんが、もし会ったら師父に3回叩頭の礼をしたいと思います。本は新華書店(国有)で買ったし、国はお金を儲けたではありませんか」と私は言いました。610弁公室のリーダーは、「サインをしなければどんな結果になるのか分かりますか? この本だけであなたに判決を下すことができます」と怒りながら言いました。私は、「最悪でもせいぜい銃殺刑でしょう。私は監獄の中で座り続けます」と答えました。それから私は二度と尋問を受けることがなく、留置所で二カ月間拘留されてから、一年半の判決を言い渡されました。今考えてみれば、当時は法理がはっきりと分からず、迫害に反対することがわかっていませんでした。ただ善い人になろうと思い、大法弟子は監獄での災害から免れないと認識していて、言われたことに従いました。
2003年春、労働教養の刑期を終えて帰宅しましたが、邪悪からの嫌がらせを避けるため、私は部隊で仕事をしている娘の町へ行き、孫の面倒をみました。異郷に行ったばかりの時は、本もなくなっていたので、毎日煉功して自分を修め、『論語』、『洪吟』を暗記していました。孫が寝てから、私は紙を切って手書きで「法輪大法はすばらしい」と書きました。娘は夜勤なので、孫の面倒は私が見ていました。私は8カ月の孫を抱えて、夜に道路沿いの電信柱にスローガンを貼りました。その後、人の紹介で現地の同修と知り合って、私に大法の本と真相資料を提供してくれました。それから現地の同修と一体となって、師を手伝って法を正しました。毎日孫を背負って、団地のマンションの6階から1階へ真相資料を配り続けました。その時、60歳を過ぎていた私は疲れを感じませんでした。常人は私が歩くとき、足が地面に着かず、速くて風を切っていると言いました。私は彼らに、これは法輪功を修煉したことでもたらされた素晴らしさだと伝えました。
(続く)
(明慧ネット第8回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)