明慧法会|私が主導する(二)
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 【明慧日本2011年12月7日】

 二、自分を捨てて全体に協力する

 常人から見れば、私はとても有能で自信があり、しっかりした考えを持っている人間のようにみえますが、修煉の角度からみれば、それは執着にほかなりません。修煉を始めてからでも、執着の問題はずっと存在していました。意見が統一できないため、よくほかの同修と言い争ったり、他人の意見を最後まで聞かずに中断して、早く自分を表現しようとします。これは正しくないと分かっていても、議論を通して法理に対する認識がますます明晰になるのではないと思うばかりで、結果的に心性の向上をおろそかにしてしまいました。

 その後、正法の過程が絶えず進展するにつれて、師父は数回の説法において、全体の協力の重要性を強調され、『更なる精進を』の中で次のように言われました。「大法弟子は皆素晴らしいのであって、それぞれの世界からやってきた王だと私は言いましたが、皆さんはもちろん、しっかりした見解を持ち、皆能力がありますが、協調が必要なとき、それぞれ違うことを行ってはならず、皆で協力し合いながら、一つのプロジェクトを完成させ、皆が同じプロジェクトに参加する必要があります。それなら、いったいどのように行えばいいのでしょうか? 実は如何なる人の見解も完璧なものではなく、最も優れたものではありません。大事なのは問題を提起した人、問題を解決しようとする人、または改善意見を出した人の出発点が良く、行おうとすることが大体間違っていないと思えば、私たちは積極的に協力すべきです」

 そこで、私の執着を取り除くことが重要な位置に置かれました。同修と一緒に学法したり、大法の事をやるときも、私は常に「大法と衆生を救い済度するため、自分を捨てて、全体に協力しよう」と、自分に注意します。そして、私は自分の執着を取り除く過程で、実に執着は単なる一つの心ではなく、その中に名利心、闘争心、顕示心などたくさんの執着が含まれていることが分かりました。

 2009年の年末に、私が参加した学法グループの同修Aさんに突然、脳血栓の症状が現れました。Aさんが早く回復することを願い、当地区にいるたくさんの大法弟子がこの同修の家に来たことがあります。Aさんの家でみんなが一緒に切磋して、Aさんのために発正念をしました。しかし、数カ月過ぎても、Aさんの回復は大きな変化がなかったので、皆はどうすればいいか分からなくなり、焦り始めました。ある日、我々のグループは学法後に交流するときに、「Aさん本人がまず心性を高め、強い正念を持つことが問題を解決する重要なカギです」と私は言いました。しかし、「Aさんが苦しみの境地に置かれ、まさに助けを必要としているときなので、全体の力を合わせて邪悪の彼への迫t害を取り除かなければならない」と、他の同修は賛成しなかったのです。そこで、私は自分が正しいと証明するために、顔を真っ赤にして言い争い、もう少しで何を争っているか忘れるところでした。

 家に帰る途中に、私は高ぶっていた気持ちがだんだん落ち着いてきました。改めて先ほど論争した経緯を念入りに考えてみると、表面からみれば、私が悟った理は全部間違いではないのですが、実際、数カ月の間ずっと発正念をしてきましたが、効果が見えず焦り始め、気落ちしてしまい、同修に対する責任が足りなくなったことが示されました。

 特に、同修との論争が激しくなっていくにつれて、完全に自分が正しいことを証明するために、非常に自分に執着していたことがはっきりと見て取れました。その次のグループ学法の時に、私は同修の前で自らの誤りを認めました。私はAさんを見ないで、自分だけを見て、自分の責任を果たすことを伝えました。このようにして、Aさんが回復するにつれて、グループ全体はますます一体の役割を果たしつつあります。

 私が参加したもう一つの学法グループで、このような事が起こりました。当地区の迫害状況に焦点を合わせて、私は何篇かの真相文章を書いたことがあります。これらの文章が相次いで明慧ネットで発表された後、どのようにこれらの文章を利用して、当地区の民衆に真相を伝えるかについて、グループの同修と相談しました。この時、同修Bさんが、プロのように文章が書ける同修がいて、その何篇かの文章を読んだ後、改善するところがあるので、グループの同修にいくつかの資料を提供してほしいと頼まれました。皆さんはどう思いますか、と言いました。

 当時、私はこう言いました。「参加される人がいれば、いいことだし、文章を改善してくれる人がいれば、もっといいことで、さらに彼が言った改善の方法に私も賛成します。しかし、問題なのは当時そのような文章を書いたのはそのような素材しかなかったからであり、書きたい文章の素材が何でも見つかるというわけではありません。その他、文章の質を確保するため、我々の文章はみな明慧ネットで発表されたので、彼が訂正したければ、明慧ネットでの発表も確認しなければなりません。発表できるかどうか、発表できるまでどのぐらい時間がかかるかが問題ですから、現在我々がやっている事の効率は悪くなるでしょう」と、言いました。その後、Bさんは依然としてこの同修に協力することを私に説得し続けたので、私は「すべての資料は我々のポストに入っていることをあなたも知っているではありませんか。なぜ私だけ協力しなければならないのでしょうか」と、問い返しました。これを聞いた後、同修は顔を赤くして何も言いませんでした。

 帰宅途中に、私はBさんと同じバスに乗りました。Bさんは自らの問題を探し出して、文章を書く方面で私に依頼する心があると言いました。実はこの時に私も自らの問題がみつかりました。表面は堂々と、道理があるように言っていますが、実は執着の中に嫉妬心が入り混じり、他人に自分の文章を修正させたくない心や、他人が自分よりよく書けることなどを言い放ちました。帰ってきて、改善したいという同修の意見を再検討し、彼に協力し、良い文章が書けるように努力することを伝えました。

 このような事が次から次へと起こった後、私の「自分への執着」はだんだん取り除かれました。現在、私は同修を救出することや、文章を書くこと、パソコンとネットワーク技術などの方面において、多くの同修と、よく協力できています。そして、多くの同修から、私は他人を理解できるとか、他人を包容できるとか、自己顕示しないとか褒めていただきました。今年初めからの数カ月間、私はずっとネットで他地区の同修Cさんと協力して仕事をしました。Cさんはしょっちゅう自分のいくつかの文章を書く仕事を私に依頼し、私は書き終わるとCさんに送ります。この事が作家である同修Dさんに知られた後、「彼女がそれを持って投稿すれば、他の人は彼女が書いたものだと思うでしょう」と驚いた様子で私に聞きました。私は笑いながらいいました。「誰が書いたって問題ないではありませんか? 人を救うことこそ重要ではないでしょうか? しかし、他の人は私が書いたことを知らなくても、師父はご存知でしょう?」Dさんは何か悟ったようにすぐ私に言いました。「この点において、私はあなたに学ぶべきですね」

 現在、私は同修と協力する中で、何か心地よくないと感じると必ず、「法を実証するためなのか、それとも自分を実証するためなのか。自己顕示をすることが重要か、それとも人を救うことが重要か」と自分に問います。特に、私は常に師尊が『各地説法(二)』「2002年米国フィラデルフィア法会での説法」の中で言われた話を思い出します。


 「それでは、彼らの心はどういう状態なのでしょうか? それは寛容であり、非常に洪大な寛容であり、他の生命を受け容れ、本当に相手の立場に立って他の生命のことを考えてあげることができます。これは多くの人が修煉の過程でまだ到達できていないことですが、皆さんは徐々にそれを認識し、到達しようとしています。ある神がある方法を提示した時、彼らはそれをすぐに否定し、自分の方法を示し、自分の方法が最も良いと言うのではありません。彼らは他の神から出された方法の最終結果がどのようなものなのかをまず見るのです。道が異なり、一人一人の道も異なっており、生命が法から悟った理は皆それぞれ違っていますが、結果は同じかもしれません。ですから、神たちはまず結果を見るのです。到達する結果を見て、本当に達成したいところまで達成することができれば、それに同意します。神はこのように考えています。更に、足りない所があれば、無条件で黙々とそれを補い、圓満させます。神はこのようにして問題を対処しています」

 (続く)

 (明慧ネット第8回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2011/11/9/248908.html)     更新日:2012年2月28日
 
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