自我を放下し、大法を真に修める(一)
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――神韻チケット販売における修煉

文/カナダの大法弟子

 【明慧日本2012212日】最近、同修達は神韻のために強力にチケット販売を推進しています。一部の同修は商店の中でチケットを販売し、一部の同修は主流社会でチケットの販売を推進し、一部の同修は住宅地で神韻チラシを配り、一部の同修は正念を発するなど……チケット販売する中で自分を修煉していました。以下に、我が市学法ときの同修との交流をまとめ、皆さんと分かち合いたいと思います。

 一、学法

 金曜日退勤した後、私は第五功法を練習しました。やる前に訣を黙読し、「意有って意無く、印は機に従って起こし、空に似て空に非ず、動静は如意」を唱え終えると、全身がさっと震動し、この訣の裏にある一層法理さっと現してくださいました。これは私にどのようにチケットを販売するのかを教えているではないでしょうか? なにも考えず、師父に按排された気機についてやればいいです。本当にとても簡単なのです。

 このようなことは最近よくありました。毎日学法のとき、『転法輪』のどの篇、あるいはどの経文を勉強するのに関わらず、法理がみな次から次へ現れ、学法の、よくさっと悟ったり、あるいは身体がさっと熱くなったりしました。しかし、自分がを分かったのかをはっきり言うことができませんでした。この、ショッピング・センターでチケットを販売しているから、『転法輪』の毎篇の勉強でいずれもどのようにチケットを販売するのか、どのように向上するのか、まだを放下すべきかを身につけました。毎度の学法いずれも以前学んでいないところが見つかり、毎日多くの悟りがあり、毎日異なったのです。

 ある日の朝、起きて煉功と学法を済ませ、自分の感じも良いと思いました。しかしショッピング・センターに着くと、人はとても少なく、私は通したすべて人を懸命に留めようとしましたが、結局誰も黙って、とても冷淡に素通し、正念を発しても変わりがありませんでした。私はすぐ気がつきました。必ず自分はどこが正しくなかったから、このような状態を招たのです。私は内に向けて探し始め、どこ法理とねじているのを見てみました。突然1つ言葉さっと私の頭に打ち込まれました。「執着を持って法を学ぶことは真に修めることではありません」(『精進要旨二・圓満成就に向かって』) 私は分かりました。朝、学法したけれども、私はチケットをよく売ために法を勉強しました。チケット販売のために法を勉強するのは表面から間違っていないのですが、奥へ深く見ると間違っていたのです。求める心を持って学法し、師父の大法を用いて自分やっていることを円融しようとし、すべての人心を放下し、謙虚師父の按排を受けるのではありませんでした。さらに考えてみると、チケットをよく売りたいと思うのは無条件で大法を実証するためなのか、自分を証明したいためなのでしょうか。裏に自我を証明したい心が隠れて、そして大法の助けを借りて自我を証明しようとするのはどれほど怖い人心なのでしょうか。やはり朝の学法はこの人心の執着下で学法していたので、偽りの修めでした。だから誰も黙って素通したの当然です。

 問題の所在を見つけた後、私はすぐ正念を発し、自分のこの心を取り除きました。そのとき、外の環境も変わりました。先程は、人々は黙って素通していましたが、問題が見つかった後、興味を示す人急に現れてきて、私はまた忙しくなりました。私は分かりました。学法は学法なので、修練者の本分であり、いかなる条件と目的がないのです。学法のとき、法理見えないのは必ず私たち自分からの妨害がどこにあります。放下できない執着を持って大法の中で求め、いくら多く学法しも意味がありません。

 ある日、私はネット同修の一篇交流文章を読み、素晴らしいと感じました。文章の中では『北米第一回法会での説法』一段落が引用され、そのとき師父の法が私の心に打ち込まれ、私は『北米第一回法会での説法』を見つけ出し、丁寧に拝読しました。今、ここでこの二段の説法を引用し、同修と分かち合います。

 「もし修煉者が表面では放下しているだけで、内心ではまだ何かを守り固守していて、自分の最も本質的な利益が傷つかれないようにしていれば、皆さんに教えますが、これは偽りの修煉です! 自分の心が動じなければ、少しも向上することができず、これは自らを騙しているのです。真に内心から向上することだけが、本当の向上なのです」、「人間は自分を守ろうとしているとき、皆「私()」のためだからです。「私」のための願望から、苦を舐めたくなく、幸せでいたいと思っています」(『北米第一回法会での説法』)

 私は自分の内心深いところで何か「最も本質的な利益が傷つかれないように」していないかを探し、一点一点自分の内心深いところに向けて見て、徐々に私の生命の中に溶け込んだ自我を守る心が見えました。この「自我を守る」心は、私の生命に深く溶け、私は知らずにこれを自分とみなし、さらに学法のとき、法を実証する仕事の中で作用し、さらに主導していました。私の学法はこの「自我を守る」心にり学法をしないと旧勢力の妨害と迫害を受けるのが分かったため、さらにしっかり自分を守るために学法していたのです。私は引き続き、この「自我を守る」に沿ってより深いところて探しました。なぜ私はいつも「自我を守ろう」とするのか、その根はどこにあるでしょうか? 私見えたのはこの「自我を守る」の根が自我に向けられた執着であり、旧宇宙生命は私(し)のため、我のための本性なのです。私は急に爆発したように一瞬にしててが分かりました。

 未来の宇宙は無私ですが、私はいつもこの私のための自我をきつく抱いて放下せず、また妄想して大法によって、この私のための自我本性を守ってもらおうとしていました。これでは、どのように法を身につけるでしょうか、これは偽り修めです。私は正念を発し始め、この「自我を守る」と私(し)のための自我本性をきれいにしました。

 この「自我を守ろうとする心」と私のための自我本性を見つけてきれいにした後、再び法を勉強するとまったく違い、落ち着くと法理見え、大法自分を変えているのを感じ、トラブルに遭うと師父を思い出し、法を思い出し、徐々に内に向て探すと心性向上することの玄妙が分かり、いつも内心から師父に無量恩を感じるようになりました。

 (続く)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2012/1/29/252424.html)     更新日:2012年2月14日
 
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